チューリップ…:上富良野の風景…(2024.05.12)

<上富良野町開拓歴史広場>の辺りを少し歩き廻っていた。

↓微風に揺らぐチューリップが好い状態だったので見入った。
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↑思うと「好い感じだ…」とチューリップを眺めたのは、今季初めてかもしれない。

小説の『続 泥流地帯』で描かれた、「大正泥流」の被害地域での農業復興に取組んでいた様子を思い出しながら眺めた水田の近くで見掛けたのだった。

「大正泥流」の埋木…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)

↓広場にこういうように木が置かれていた。
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↑少なくともベンチではない。座面が整えられているのでもない。そして製材が施された材木でもないことも見れば判る。

↓反対側の端である。両方とも少し激しく傷んでいる。人為的に切断したのではなく「折られた」という様子である。
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↑これが1926(大正15)年の「大正泥流」で押し流された木なのである。2018年に住宅工事の現場で埋まっていたのが発見されたそうだ。

「両端が傷んでいる」というのは、激しい泥流で「叩き折られた」ようになった木の幹が、単純に押し流されるのでもなく「縦に回転」というすさまじい勢いで迫ったので、色々と硬いモノに当る等で両端が摺られながら傷んだと推定出来る。

屋外に置かれているため、この埋木は少し傷んだ感も否めないが、「大正泥流」の恐るべき破壊力を想わせるモノである。

尚、この埋木に関しては、別な場所に在る<郷土館>で屋内のケースに入った状態で展示されているが、こちらは「工事現場で掘出された現物のまま」に近いと見受けられた。

こういうモノはなかなかに貴重で、こうやって公開しているのも意義在ることだと思う。

草分神社…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)

精確には<上富良野町開拓歴史広場>の範囲を少しだけ外れるのかもしれない。やや離れた辺りからも小説『泥流地帯』の文学碑が判るのだが、その直ぐ隣りのような辺りである。

↓そこに鳥居が在る。
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↓社殿に近付いてみた。
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↑複雑な形状の雲が蠢くような天を背景に、影絵のようになっている社殿が美しいと思った。

↓草分神社という社だ。
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北海道内では方々の色々な人達が各地に入植し、村を興そうとする中で、安寧を祈るべく祠や社を起こし、それが地域の神社となって現在に迄受継がれている例が多々在る。上富良野もそういうような例に洩れない。

今日<上富良野町開拓歴史広場>となっている辺りを含む地域では、1897(明治30)年頃から入植が始まったというのだが、その翌年となる1898(明治31)年には神社の礎となる場が設けられたという。

村を拓くべくやって来た人達は、「当地に着いた頃、楡木の辺りで野宿をする」という経験をしており、その木を“御守り”としながら天照大神御札に御参りをしたのだという。やがて1902(明治35)年には正式に伊勢皇大神宮の御分霊大麻を受け神祀を建立した。そして村の歩みが始まったという場所の名を冠して「草分神社」と号したのだという。

その後は「大正泥流」で損なわれ、再建されというような経過で、現在に繋がっているようである。

この地を拓き、様々な苦難も潜り抜けたという経過を知るべく、感じるべく上富良野を訪れて観たが、そういう好い経験が出来ているということに感謝の意を表しようと、草分神社に参拝した。

朝に…(2024.05.15)

↓身体に当たる風が多少冷たい中で歩き、稚内駅の辺りに至った。
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↓陽射しはやや眩しい。
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↓「18℃」にやや驚いた。
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↓長袖シャツの上に、風除けとして薄い上着を引っ掛けて戸外に出た。少し長く歩くと、身体が温まって軽く汗ばむ。が、気温の割に温かい感じが乏しいように思える。
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移ろう季節という中、日々の営みが在る訳だ。

建物…(2024.05.15)

5月3日に足場が組まれ、5月4日に足場にネットが張られ、何やら「囚われた?」という様相の建物が在る。塗装工事をするというだけのことではあるのだが。

↓2週間近くが経ったが、未だこういうような様子である。
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存外に手間が要るものであるようだ。

車窓…:豊富・下沼間(2024.05.11)

稚内駅から普通列車に乗込んで移動した。特急列車も停車する豊富駅を過ぎると「漸く隣りの街か…」という程度に何時も思う。稚内・豊富間は鉄道で43.5㎞であるそうだ。

↓豊富駅を過ぎて少し経った頃、広大な牧草地が広がる辺りで提げていたカメラを素早く使った。
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↑牧草地の彼方、幻影のように、雪が未だ少し多く残っている利尻富士が霞んだ。

1721mの高さであるという利尻富士である。少し広い範囲に「見える場所」は在る。車窓に見える場所も何箇所か在る。写真に撮るのはやや撮り悪いような気もするが。それはそれとして、窓から利尻富士を眺めるのは愉しい。

車窓…:南稚内・抜海間(2024.05.11)

稚内駅から名寄駅へ向かう普通列車に乗車した。雲が多い早朝だった。

南稚内駅を過ぎ、抜海駅へ向かう途中、列車の窓から日本海が視える箇所が在る。素晴らしい景色が望める場合も在るのだが「好条件」でなければならない。

↓雲が多いので、漫然と海が視えるだけだと思っていたが…雲間に未だ雪がやや多く残る利尻富士が、幻影のように霞んでいた。
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気に入った車窓の景色も、時季や天候で見え方が違う。そういう景色に出逢い、記憶に留め、通る都度に愉しむというのが好いと思う。と言いながら、列車の中で居眠りに及ぶ場合も多々在るが。

朝の稚内駅を発つ…(2024.05.11)

↓早朝の稚内駅は「無人駅」のような要領で利用することになる。
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↓改札口を随意に潜ってホームで佇んで居れば、少し向こうの踏切の警報音が鳴り、列車が近付いて来る。
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↓普段は車輌がホームに停まる寸前、停まった頃から改札が始まってホームに出る。稚内駅でこうやって車輌が近付く様を眺めるのは、「早朝の普通列車ならでは」という気がしないでもない。
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↓眼に馴染んだキハ54ディーゼルカーである。
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↓乗務員が準備をして間もなく扉が開く。
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↓車輌側面に掲出する「宗谷線」のボードが好い。何種類かの画が在るようだ。これは名寄の「キマロキ」の画を入れている。
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↓進行方向に椅子の背が見えている。座席が回転しない、完全に固定の仕様という車輌だ。
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↓旧い優等列車用車輌の椅子を据え付けたと聞く。
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↑キハ54ディーゼルカーは、各車毎に内装が少し違う。

↓「JNR」(=国鉄)のマークをそのまま残した扇風機が天井に据え付けられている。
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↓荷物は一寸棚に上げる。
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↓テーブルが備わった感じの席に陣取った。駅の脇の自販機で求めた飲物を出す。何気なくバッグに容れていた本も出しておいた。
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↓列車を乗り継いで、旭川へ259㎞の道程を往く。
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自身にとっては「始発駅」である稚内駅をこうして出発した訳だ。

自販機…:稚内駅(2024.05.11)

稚内駅の辺りは1日を通して「静か」という時間帯が寧ろ多いような気もするのだが、早朝は殊更に静かであるように思う。

↓朝5時台の普通列車に利用する場合、少しゆとりを持って稚内駅に足を運び、この辺りに寄る。
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駅ビルの反対側に入っている御店は朝6時に開く。その以前であれば、ここで車内用の飲物を求めておくのが、自身の中では恒例になっている。

今般もその恒例に従ったのだった。

エゾヤマザクラ…:塩狩(2024.05.11)

今季は、些か桜に縁薄かったかもしれない。桜の時季に花が好い場所を訪ねる機会を設けたのでもなかった。地元では咲き始めた少し後に酷く寒くなり、動き悪いので積極的に戸外で桜を眺めたのでもなかった。

そういう様子ながら、今般立寄った塩狩駅の辺りに関しては、多数のエゾヤマザクラが在ることが知られている。

↓残念ながらその多数のエゾヤマザクラも花が終ってしまっていたのだったが、それでも「待っていてくれた!」という木が在った。
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旭川へ向かう列車を待つ間に花を少し愛でていた。
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こういう形で桜と巡り会えたという様子が記憶に残る。そして感謝したい感だ。

<長野政雄氏殉職の地>:塩狩…(2024.05.11)

『塩狩峠』はよく知られた小説だと思う。作品を読んでいなくても、題名位は耳にしたことが在るという場合も少なくないことであろう。

この『塩狩峠』のクライマックスということになる出来事が起こった場所に近い塩狩駅の傍には、この小説が綴られた頃に作者の三浦綾子が住んでいた家の一部を利用した記念館も在る。

↓辺りにこういう碑が在る。何方かが御酒を御供えしたようだ。碑に名の在る御本人が酒を愛したか否かは知らないが。
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↑小説の『塩狩峠』は、実際の出来事に着想を得ている。連結器が外れて、下り坂を滑るように動き始めた列車を何とか停めようとして轢かれてしまったという人物は実在する。その人物が長野政雄である。

『塩狩峠』の作者である三浦綾子は、旭川の街に在る旭川六条教会に通っていたというが、実はこの長野政雄も鉄道勤務の他方で旭川六条教会に通っていた。そういうことが、小説の執筆の契機にもなっているのであろう。

↓碑の反対側では、小説のモデルとなった出来事に関わった、実在した人物である旨等が紹介されている。
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結局、地域間を結ぶ鉄道のようなモノも含め、色々な人達の努力や犠牲が在って「今日の暮らし」が創られているのだと思う。名寄から旭川への列車が不具合を来してしまった時に何が如何なったのか、真相は判らないかもしれない。が、小説は色々な事を考える材料を提供してくれると思う。

更に、名寄から旭川の区間を含む宗谷線を年に何度も利用していることも在り、小説とそれに着想を与えた出来事に関しては、是非とも記憶に留めたい。

自身で『塩狩峠』を読んだのは然程以前でもない。寧ろ最近だ。が、作品や作家と出会い、関係の場所や展示施設を訪ねる機会を設けられたのは大変に幸いだ。

59601号機:<排雪列車「キマロキ」編成>…(2024.05.11)

↓“機能”が具現化して出来上がったのが蒸気機関車の形状なのだと思う。こうやって間近でその形状を眺めると、蒸気機関車は美しいと思う。
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↓「59601」という機番のプレートの下に「大10川船」というプレートが在る。「大10川船」は「大正10年 川崎造船所」と製造時期と製造工場とを示している。
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↓運転台の様子だ。
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↓何度観ても、この機関車は好い。
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きっと、また観に立寄ると思う。余り大きく取沙汰されていなかったが、この機関車も既に「100年」を超えている貴重な存在だ。

D51 398号機:<排雪列車「キマロキ」編成>…(2024.05.11)

↓蒸気機関車の運転台である。ボイラーを焚いて蒸気を起こして、それを調整して動輪を動かす訳だが、石炭を投入する場所が設けられ、その蒸気の調整を担う機器類が搭載されている場所だ。
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↓D51 398号機である。
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「D51」を「デゴイチ」というようにも呼んでいたと思う。幼少の頃には「デゴイチ」という呼び方が「蒸気機関車の代名詞」でもあるかのようだったような記憶が在る。

D51形は1935(昭和10)年から1945(昭和20)年と長く製造されたが、製造総数が1184輌に及ぶのだという。全国で広く活躍していて御馴染であったことや、長く製造が続いたことが示すように、扱い易く現場で好評であったということから「デゴイチ」が「蒸気機関車の代名詞」という様子になって行ったのであろう。

幼少の頃には、未だ「蒸気機関車牽引の貨物列車」が少し見受けられた。“親父殿”と車で出掛けて、踏切の辺りでその「蒸気機関車牽引の貨物列車」を見たという記憶、そして「黒い怪物のようなモノが、長い真っ黒なモノを引いて、煙等を撒き散らすように通り過ぎて行った」と考えたというような記憶が僅かに在る。「デゴイチ」は黒く、ボイラーを焚く黒い煙が煙突から上り、白い蒸気が噴き出し、牽引しているのは大概が石炭を積んだ黒い貨車だった。そこで幼少期に「黒い怪物のようなモノが、長い真っ黒なモノを引いて、煙等を撒き散らすように通り過ぎて行った」と思ったのであろう。後から“親父殿”に、嘗ては線路の上を走るモノと言えば、蒸気機関車が牽引する貨物列車や旅客列車ばかりであったこと等を教えてもらったというようなことも在ったかもしれない。

↓何か「眼に馴染む」という感じだ。「蒸気機関車の代名詞」でもあるかのように言われた「デゴイチ」だけに、「蒸気機関車」とでも言えば「こういうような感じ」を思い浮かべるかもしれない。
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製造数が多いので、D51が保存されている例は方々に在る。近年では旭川室蘭神戸、加えて<京都鉄道博物館>で観た。

更に、(当時)ソ連サハリン州へ向けての輸出用にこの「デゴイチ」が製造されたという経過が在り、使用されなくなってからも日本国内で見受けられるように展示されている例を観たことが在る。日本国内では機関車のプレートに「D51 XXX」と記すが、サハリンで見受けられる仕様は「D51-XX」となっている。

↓「D」というのは「4動輪」を示す記号だ。何となく動輪を眺めていたが、「C」という「3動輪」に比べて径が小さめだ。が、「4動輪」はより大きな牽引力を発揮するので、主に貨物列車の牽引で活躍していた。
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この「デゴイチ」の姿は、今後も長く伝えて欲しいと思う。殊にこの<排雪列車「キマロキ」編成>の398号機は好いと思う。

<排雪列車「キマロキ」編成>…(2024.05.11)

↓「名寄」とでも聞くと「コレ!」を思い出す。名寄駅から旭川方向に列車で少し進むと、車窓にコレが見える場合も在るが「一瞬見える」という様相だ。近くに足を運んで少しゆっくり眺めるのがより好い。
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↑名寄では<排雪列車「キマロキ」編成>の屋外展示が観られる。色々な関係者の皆さんによって大切に護られている。こういう屋外展示は、冬季間には積雪の故に確りと覆うのが北海道内では寧ろ普通だ。名寄も例に洩れないが、例年4月末頃に覆いを外している。「観られる!」と思い出し、列車待ちの時間に足を運んだのだった。

2022年6月に立寄ったのが最も近い訪問であると思うが、大変に興味深く、気に入っているので何度も立寄っている。

↓編成の先頭に立つ蒸気機関車59601号機である。方々で長く使われた9600形蒸気機関車である。
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↑1921(大正10)年に製造された59601号機は、1972(昭和47)年迄の半世紀余りも名寄で働き続けた。

↓続いてマックレー車だ。線路脇等の堆い雪を掻き寄せるようにする。
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↓そしてこれがロータリー車だ。1939(昭和14)年に製造されたモノであるという。
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↑蒸気機関車が走る機構を応用し、車輌前方の巨大な羽を回転させて雪を飛ばしてしまうロータリー車だ。一見すると機関車のようだが、自走能力は無い。

↓余談ながら、サハリンで同様のモノを観たことが在った。2018年11月だった。北海道内で使用されているモノと同型、または似たモノが樺太時代に運び込まれ、戦後も長く使われて、サハリンでも「鉄道の歴史を伝える車輌」という扱いになって展示されていたのだと思われる。
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↑ハッキリ言えば、サハリンの例と名寄の例位しかこの車輌の展示は思い浮かばない。そういう意味でも貴重だ。

↓名寄のロータリー車だが、大きさは蒸気機関車と殆ど変わらない。
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↓そして蒸気機関車D51 398号機だ。最も多く製造されたD51形蒸気機関車だ。
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↑この398号機は1940(昭和15)年に製造され、1973(昭和48)年迄働いた。

↓末尾には、嘗ては貨物列車等に見受けられた車掌車も連結されたようだ。これは関係者が乗込む場所なのだろう。
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機関車の「キ」、マックレー車の「マ」、ロータリー車の「ロ」、機関車の「キ」と車輌の種類に因んだ文字を組合わせて「キマロキ」である。軌道脇に堆くなった雪をマックレーで崩し、それをロータリーで遠くへ飛ばす。ロータリー車は「動けない機関車」というように凄く重いので、後ろから機関車で推す。そしてマックレーを牽引する。故に2輛の機関車に、マックレー車とロータリー車が挟まれた独特な編成となるのだ。

↓ここでは、殊にこの蒸気機関車59601号機が気に入っている。半世紀以上も働き続けた“大功労者”の勇姿が伝えられているのだ。
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↓反対側では各車の運転台辺りに梯子が掛けられ、中を観ることも出来るように展示されている。
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「名寄には、他にも色々と佳いモノや面白いモノが在る!」と些かの御叱りを受けるかもしれないが、それでも「名寄」とでも聞くと「コレ!」を思い出し、「あの勇姿に会いたい…」と時々名寄に立寄る。

名寄駅到着…(2024.05.11)

稚内駅から乗り込んだキハ54ディーゼルカーは順調に南下を続けた。車内は空いていた。美深駅以降は、名寄駅を目指す人達が若干乗り込んだが。

↓早朝の列車で名寄駅に着くと、何となく大き目な安堵感が湧く。
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↓「ここ迄運んでくれて有難う!」という感じでキハ54ディーゼルカーを眺めた。
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↑先走りな話しにはなるが、この車輛は少し長く待機していて、結局塩狩駅迄はこの同じ車輛に乗った。

↓稚内駅のホームで見えていたのとは反対側の車輌側面が見えていた。「宗谷線」のボードは利尻富士の画だ。凄く気に入っているボードだ。
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早朝に稚内駅を出る普通列車で名寄駅に着き、以遠へ進む場合、特急列車であれ普通列車であれ、乗り継ぐにはやや間が在る。普通列車の場合は、ホームで待機の列車に乗込むことが出来る迄の「実質的待ち時間」で1時間少々だ。

↓ということで、予め求めて在った乗車券に改札口で「下車印」を押して頂いて、少し外に出て歩き廻ることにした。
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稚内港北防波堤ドーム…(2024.05.15)

前日迄、出先で活動する等していた数日間を過ごした。前夜は早目に強めな眠気を催し、それに抗うことなく直ぐに眠った。横になった場所の灯りが点いたままで、一旦眼を開けた時に消した。そして気付けば午前3時台であった。

薄明るい感じに誘われるように早朝の戸外へ出てみた。

↓少し風が強い中、稚内港北防波堤ドームの屋蓋が見える辺りに足を運んでみた。海鳥が風に舞っているような様子だった。
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↓10℃を少し超えているようだが、少し強い風が冷たく、何となく掴んだ晩秋から冬季にも使う場合が在る上着が程好かった。
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↓雲に滲むような朝陽が高度を少しずつ上げる様が見えた。
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↓もっと朝陽の高度が上がれば、明るい晴天になると見受けられる様子だった。
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こういう様子を見ると「稚内へ引揚げた」という感が強まる。

自販機…(2024.05.15)

早朝に散策に出た。

↓何時も見掛ける自販機だ。
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↑650ml入だという緑茶のペットボトルが170円だった。

全く「だから?」という話しなのだが。

夕べに…(2024.05.14)

↓「安着祝い」と号し、未だ暗く成り切らない夕刻に「ハイボール(少し濃い目)」のグラスを傾け始めた。
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出先から列車で引揚げ、午後を過ごしては止めな夕食と思い立ち、御近所の御店に立寄った。

↓「とりあえず…」とシーザーサラダを頂く。
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↓この組合せが気に入っている。
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↓イカ塩辛を摘まむ。
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↓タコめしは外せない。
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↓野菜炒めも好い。
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↓鮭のおにぎりを頂いて締め括った。
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「何時もの感じ…」で寛いだが、それはそれとして、何か素早く引揚げて速やかに休んだという夕べであった。

ランチ…(2024.05.14)

朝に旭川駅で特急列車に乗込み、昼に稚内駅に着いた。酷く寒いとも言い悪いが、やや強めな風が冷たかった。

↓荷物を持ったまま、拙宅への道筋に在る御店に立寄ることとした。
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↓気に入っているビーフカレーをゆったりと頂いた。
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↓食後の珈琲が好い。
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寛いだ後、拙宅へ引揚げた。

昼に…(2024.05.14)

↓到着した稚内駅で戸外に出てみた。
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↑程々な気温で天候は好い。

↓心地は悪くないが、風は少し冷たい。
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風の故に、「駅前に佇む」というようなことで、強く「到着した…」と実感する場合が在る稚内である。

「味噌ハーフ」…(2024.05.12)

旭川駅へ足を運んで、<花たび そうや>というイベント列車を眺めた。

イベント列車を眺めた後、戸外は少し風が強かったが、駅周辺を歩き廻り、ここに至った。
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↓何度も立寄っている御店だ。
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↓「味噌ハーフ」というモノを頂くこととした。「麺が半分」という味噌ラーメンである。丼が通常と少し違うという。多分、ややサイズが小さいのであろう。
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↑辛さを指定するようになっているが「3」ということにした。自身にとっては程好い辛さだったと思う。

↓「ハーフ」ながら「十分な量感」というように思った。“味玉”を追加して頂いた。白いモノは小さな餅だ。
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↓濃い味の味噌ラーメンが似合うような麺だと思った。
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↓「御馳走様でした!」という按配だ。
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この日は上富良野を訪ねて積極的に歩き廻り、この時間帯には「些か足取りが重く…」という様子になっていたので、この御店での食事を「早目な夕食」ということにして、宿に引揚げてゆったりと寛いだのだった。

塩狩駅出発…(2024.05.11)

<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>興味深く見学した。普通列車を乗り継いで塩狩駅で下車し、また塩狩駅から移動するということになると、事前に列車運行時刻を少し調べてメモでもして、それを頭に入れながら動き回る必要はあるであろう。が、幾つもの小説を愉しく読んだ自身としては、<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>を是非訪ねてみたかったので、事前に多少調べた。興味深く見学出来るようにするとすれば、早朝の列車を乗り継いで到達し、やや慌ただしい様子ながらも<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>を確り訪ねて旭川駅へ向けて移動をするのが好さそうだと考えた。

↓2番ホームで列車を待っていた。名寄駅で待機している様子を見たことも在るH100形がやって来ている。乗って来た列車の約1時間後に名寄駅を発つ列車だ。
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↓停車に向けて減速する。
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↓佇んでいたのは車輛の後尾側だった。ワンマン運行の列車は、無人駅では乗務員(運転士)が乗っている前側の扉で乗降するようになっている。前の側へ駆け寄って乗車した。
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或いは北海道内では、こういうような雰囲気で列車に乗降する駅が非常に多いかもしれない。車内は座席が埋まって立つ人も在るという程度に賑わっていた。朝の稚内に合わせた服装の故に「些か暑い…」という程度に思い始めながら、旭川へ移動したのだった。

帰着…=運行日誌(2024.05.14)

拙宅の居室で寛いで居る。

前日は、岩見沢駅からの列車で旭川駅に到着後、宿へ引揚げずに街へ出て、少し馴染んだ御店に立寄って食事を愉しんでから宿へ向かった。直ぐに眠気が強くなり、何やら深く眠った。

眼が開けば未だ午前3時台だった。結局そのまま起きて居た。そういうのも「休日らしい」というものだ。やがて窓の外が明るくなって来た。前々日の曇天、前日の雨交りに対して好天だ。朝に散策には出なかったが、明るい窓を眺めながら、居室でゆっくり過ごすのも一興というものだ。

「宿で朝食を頂く」というのは特殊なことではない。が、1泊した翌日も、そのまた翌日も「午前6時前行動開始」で、6時半から供される朝食は頂いていない。よくやるように、朝の特急列車で稚内へ引揚げる段取りなので、これもまたよくやるように、宿の朝食をゆっくり頂いた。朝食を供するホールが余り広くないので、「御弁当」な方式で、居室に持ち帰って頂くということも出来るようになっている。今回はその方式だった。

やがてゆっくりと旭川駅に向かい、列車に乗り込んだ。車中では、何となく居眠りも交じった。一部の駅での到着や発車の様子の記憶が曖昧だ。深めに居眠りをしてしまったのであろう。

無事に着いた稚内は15℃程度であったが、風は多少冷たかった。拙宅へ引揚げる道すがら、御近所の御店に道草で昼食を摂った。

なかなかに充実した数日間であった。時にはこういうのも悪くない。数々の見聞等は、順次綴るようにしたい。

煉瓦造…:小林酒造:栗山(2024.05.13)

栗山駅から歩いた。小雨が交って濡れる中、左折すべき場所を通り越してかなり歩いた。やがて左折すべき正しい場所に引き返し、更に歩を進めた。

↓在った!小林酒造である。
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↓煉瓦造の建物が使われている。
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↑「北海道のこの地に錦を飾ってやろう」という意気で、酒銘を<北の錦>としたのだという。

↓煉瓦造の他に石像の建物も見受けられた。
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冬季に氷点下の低温が続き、木造建築の蔵では発酵が巧く進まない場合も在ったということで、耐寒性の高い煉瓦造の建物にして石炭を利用した暖房を施すようにしたのだという。それがこれらの煉瓦造や石造の建物である。

小林酒造は1878(明治11)年に札幌で起こり、1900(明治33)年に栗山に移って現在に至っている。より広い用地を得て、より多く醸造をしようとした。空知地方各地の炭鉱に人が多く集まり、酒類の需要は高く、それに応えようとした経過である。

↓雨に多少苦戦もしながら、この特徴的な建物の写真を撮っていた。
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岩見沢駅にて…(2024.05.13)

雨も交じる様子の中で<岩見沢レールセンター>の建物を眺めるというようなこともしていた。やがて乗る予定の列車の発車時刻が近付いた。

↓窓口で切符を求めた。
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↑「券売機?何処?」とキョロキョロしていて、何となく窓口が眼に入ったので切符を求めたが、窓口辺りに佇めば眼の先に券売機は在った。が、こういう切符も味わいが在って好い。(ワンマン運行で乗務員に切符を渡して下車なので、切符は手元には残せなかった。有人改札の場合には、申し出てスタンプを押してもらうと持ち帰ることが出来る。)

↓岩見沢駅は「札幌の都市交通網の北東端側」という感じで、存外に多くの列車が発着していると思う。特急列車も停車する。
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↓苫小牧殿間を往来する列車だ。キハ150ディーゼルカーによる運行だ。何時の間にか、この路線の主流がこの車輛になった感じだ。
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↓車内の様子だ。H100形もこういう感じになっている。多分、このキハ150ディーゼルカー以降の車輛はこういう感じを基礎としているのであろう。
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この列車で栗山駅へ向かった。

<岩見沢レールセンター>…(2024.05.13)

岩見沢駅で北口への連絡通路に足を踏み込み、歩を進めた。

↓こういう様子が見えた。
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↑列車の窓からも見える大きな煉瓦造の建物だ。何本も敷かれた線路が在って、岩見沢駅から直ぐ近くながら近付き方がよく判らなかった。北口への通路を通れば簡単だ。

↓<岩見沢レールセンター>というJR北海道の施設だ。現役の施設で、関係者以外は建物外観を眺めるだけということになる。
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↑壁の高い辺りに「☆」のマークが在る。これは「北海道炭礦鉄道」のマークだという。

「北海道炭礦鉄道」は、北海道で最初の鉄道を手掛けた「官営幌内鉄道」から路線の譲渡を受けて各地の鉄道輸送を担い、1892(明治25)年に現在の室蘭線を始めたという会社だ。この建物は1898(明治30)年に着工で1899(明治31)年に竣工したという。「北海道炭礦鉄道岩見沢工場材修場」として登場し、以降は鉄道会社が変わる都度に引き継がれて、現在でもJR北海道で使用している。

↓事務所出入口も見えた建物が、明治時代の建築であるようだ。
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↓小雨の中、長く風雪に耐えて現在も現役という煉瓦造の建物の壁は、何とも名状し難い風格を漂わせていた。
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↓これは外観を眺めるだけでも興味深い。
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↓雨が滴る感じを何となく眺めた。
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↓興味深い場所を眺めてみる術をしったことになる。
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この<岩見沢レールセンター>は、道内各地のJR路線で使用されるレールの加工を一手に行っているそうだ。

連絡口<駅北広場方面>…:岩見沢駅(2024.05.13)

岩見沢駅は跨線橋から通じる改札口が2階に設えられ、辺りに窓口と駅員の積める事務所や待合所が設けられている。

↓その辺りにこういう出入口が在る。
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↑画のように扉を見て発つ場合、背中側にエスカレータが在って、大概はそれを使って下りて、1階に在るコンビニを利用するようなことをしている。言わば「未知の扉」が眼前に在る。

↓入ってみた。通路が設えられていた。
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↑駅を利用する人達、駅近隣を訪れる人達が利用する駐輪場も脇に設えられていた。

↓列車から見える場合も在る、何本も線路が敷かれた広めな構内を横断する大きな通路が在った。
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↓駅の北側へ下りられるようになっている。
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今般、列車に乗り継ぐまでに少し時間が在ったので、初めてこの駅の北側への通路に入った。一つ覚えた。機会が在れば、また通ってみたい。

雨の朝:岩見沢駅到着…(2024.05.13)

早朝の旭川駅で乗込んだ737系電車の列車は、通勤・通学と見受けられる人達の乗降が多く見受けられるような様子で進み、岩見沢駅に到った。

↓所謂「ワンマン運行」だが、岩見沢駅で乗務員が交代する。
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↓未だ新しい737系電車だが、辺りの「風景」として馴染んで行くようになることであろう。
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↓折り返し運転に備えて、乗務員は運転台側へ進んでいた。
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↓跨線橋に上った。右が乗って来た737系電車で、左はキハ150ディーゼルカーの2輛連結だ。苫小牧側から到着したところであるようだ。
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↓やや間が在る乗継だ。岩見沢駅の辺りで過ごす。
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今般は「通り過ぎている経過の在る駅を利用」というような様子になっているが、岩見沢駅もそういう例に含まれるかもしれない。それにしても、小雨が少し強めになっていた。キツいという程でもなかったが。

朝の旭川駅を発つ…(2024.05.13)

↓平日だが、未だ朝が早いので旭川駅辺りも静かだ。小雨が交っている。
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↓札幌へ向かう高速バスが待機中だった。
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↓旭川駅へ入ると、この時季に見受けられる横断幕が掲げられていた。
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↓東改札口だ。流石に少し早過ぎるので、旭川駅の中で一息入れる。
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↓西改札口へ廻り込んでみた。
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↓ホームへ上って行く通路の趣が気に入っている。
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↓飲物の缶等を棄てられるようになっている。ゴミ箱も、何やら館内デザインの一環のように感じられる。
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↓6番線を目指す。
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↓エスカレータを利用する。
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↓737系電車が待機していた。
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↑最近のダイヤ改正の後、この新しい車輛が眼に留まるようになった。

↓乗り込んだ。ロングシートの内装だ。何か「大都市圏の列車」というような風情でもある。
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↓ICカード乗車券の利用に関して、外国人旅行者に向けた外国語の案内が掲出されていた。
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↑旭川駅や岩見沢駅等では、ICカード乗車券を利用して入場後、ICカードに未対応の路線の列車も発着していて、未対応の駅に到って戸惑う場合が生じているようである。前日に、旭川駅の改札口で、その旨を話している外国人旅行者を見掛けた。こういうのは、外国人旅行者に限らず、国内の旅行者にも、場合によって近在に住んで居る人達でも判り悪い場合も在るであろう。

↓上着やキャップを棚に上げ、シートに腰を下ろした。
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この岩見沢へ向かう列車は、途中から乗降が少し多くなる。平日の朝だ。

早朝に…:12階の眺望:旭川(2024.05.13)

↓宿の居室で、早朝の戸外へ出る前に窓から眺めた。
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↑雲が多目でやや薄暗かったが、道路が湿っているのが判る。小雨交りだ。

雨を気にせず、半袖Tシャツの上にデニムのジャケットを引っ掛け、キャップ着用で出た。多少濡れて、湿った中で動き回ることになった。