結局、旭川駅に近い、勝手ながら「別宅」と呼んでみる場合も在る馴染んだ宿を「前線拠点」として動き回っていた。栗山を訪ねた日も、最後は旭川へ引揚げる。
↓旭川駅へ向かう列車を岩見沢駅で待っていれば、その姿が見えた。
↑こうやって、現れる列車を待つ風情がなかなかに好い。
↓岩見沢に到着した列車が、折り返し運転で旭川へ向かうようだ。
↓停車し、乗客が下り、旭川方向へ向かう乗客が乗り込む。
沿線の様々な学校(高校、短大、大学、専門学校等)の学生が多いと見受けられたが、新しい737系電車のロングシートの感じは、「大きな都市圏の通勤・通学の電車」という風情であった。そういう様子で途中に随分と乗客も入替りながら旭川駅へ向かって列車は進んだ。
少し前迄、ICカード乗車券が利用出来たのは岩見沢迄だった。最近になって、岩見沢・旭川間のこの路線でIC乗車券が利用可能となった。そしてこの新しい737系電車である。辺りの様子も変わっている感じだ。
宵に…:12階の眺望:旭川(2024.05.13)
見上げた…:旭川駅の東側(2024.05.13)
「映り込み」…:平和通買物公園:旭川駅周辺(2024.05.13)
夕べに…:<旭川やきとりism>(2024.05.13)
5月11日は早朝5時台に発車の列車で発ち、一日動き回って旭川に到った。5月12日は早朝6時台の列車で発って上富良野を訪ねて歩き廻った。5月13日も早朝6時台の列車で発って、岩見沢を経由して栗山を訪ねて歩き廻った。そして旭川に泊って翌朝に稚内へ引揚げるという段取りだ。
岩見沢駅を出た列車が旭川駅に着いた。直ぐに宿へ引揚げず、そのまま寄道で食事を愉しんでみようと、午後5時半前の街を歩いた。
↓看板を眼に留めた。
↓馴染んだ御店だ。灯りが点いている。
↓階段を下りて御店に御邪魔する。
↓「一番乗り」という風情だった。
↓<赤霧島>の御湯割りと、御通しを頂く。
↓「寒い」という程でもないが、日中に雨に濡れて、多分冷えていた。「御湯割り」が凄く好かった。
↓もやしと枝豆の御通しも好い感じだった。
↓直ぐ横に「本日の一品料理」が掲出されていた。迷いながら何点か択んで御願いする。
↓アスパラの「出汁浸し」という一品だ。軽く茹でたアスパラを、昆布や鰹の出汁に少々の調味料を加えたモノに浸す。
↑アスパラと油揚げを刻んだモノを若干ということなのだが、これに出汁が滲みて凄く好い。アスパラも旭川辺りの、短い旬という感じの太いモノで素晴らしかった。
↓鳥焼売は、鶏のミンチを皮で包んで蒸上げるモノだ。これも好い。
↓そして「じゃがバター」だ。クリームを攪拌して造るという、本当にクリームのようなバターをジャガイモに乗せるのだが、少し塩分が入った生ハムを刻んだモノも加えられ、これが非常に合う。
↓締め括りに、少し迷いながら択んだ「鳥出汁の塩ラーメン」を頂いた。
↓やや細い、ストレートな感じの麺が、サッパリしていながらも味わい深いスープに非常に合う。
↓美味いスープも確り頂いた。
確り食事を愉しみ、遠い西の天が仄かに明るい時間帯の中で宿に引揚げた。翌朝の移動に備えて休む訳である。
岩見沢駅を出た列車が旭川駅に着いた。直ぐに宿へ引揚げず、そのまま寄道で食事を愉しんでみようと、午後5時半前の街を歩いた。
↓看板を眼に留めた。
↓馴染んだ御店だ。灯りが点いている。
↓階段を下りて御店に御邪魔する。
↓「一番乗り」という風情だった。
↓<赤霧島>の御湯割りと、御通しを頂く。
↓「寒い」という程でもないが、日中に雨に濡れて、多分冷えていた。「御湯割り」が凄く好かった。
↓もやしと枝豆の御通しも好い感じだった。
↓直ぐ横に「本日の一品料理」が掲出されていた。迷いながら何点か択んで御願いする。
↓アスパラの「出汁浸し」という一品だ。軽く茹でたアスパラを、昆布や鰹の出汁に少々の調味料を加えたモノに浸す。
↑アスパラと油揚げを刻んだモノを若干ということなのだが、これに出汁が滲みて凄く好い。アスパラも旭川辺りの、短い旬という感じの太いモノで素晴らしかった。
↓鳥焼売は、鶏のミンチを皮で包んで蒸上げるモノだ。これも好い。
↓そして「じゃがバター」だ。クリームを攪拌して造るという、本当にクリームのようなバターをジャガイモに乗せるのだが、少し塩分が入った生ハムを刻んだモノも加えられ、これが非常に合う。
↓締め括りに、少し迷いながら択んだ「鳥出汁の塩ラーメン」を頂いた。
↓やや細い、ストレートな感じの麺が、サッパリしていながらも味わい深いスープに非常に合う。
↓美味いスープも確り頂いた。
確り食事を愉しみ、遠い西の天が仄かに明るい時間帯の中で宿に引揚げた。翌朝の移動に備えて休む訳である。
手短に…=運行日誌(2024.05.13)
結局、土曜日、日曜日に続いて月曜日も歩き廻った。累計で存外な距離である。
前日の午後から夜は風が強い様子だった。12階に在る宿の居室では、夜間に強風の音が少し聞こえていた。
前日は曇天で、天候は下り坂な傾向であるようだった。そういう中で深く眠った。典型的な「早寝早起き」である。早朝、雲が覆寝な戸外を窓から伺ったが、道路面が湿っている様子だった。それはそれとして、朝から動き回ることとした。
早朝、旭川駅から岩見沢駅へ列車で移動した。岩見沢駅では少し待ち時間も在った。そういう中で更に列車に乗って栗山駅へ向かった。
栗山では小林酒造を訪ねてみたかった。雨に濡れながら、道を間違えた場面も在ったが、無事に着いた。
やがて栗山の市街で喫茶店に入り、昼食を摂り、居合わせた方や御店の方と言葉を交わし、少し寛いだ。
栗山から岩見沢へ列車に乗ろうとしたが、その前に路線バスが現れたので乗ってみた。あのバスは寧ろ、岩見沢市内で賑わう感じのバスだった。列車の方が安価で速い。バスも、必ずしも本数は多くない。
岩見沢からは列車で旭川に引揚げた。旭川駅に着いて、その足で食事を摂ろうと街を歩いた。馴染んだ御店が営業していたので立寄った。ゆったりと食事を愉しんで宿に引揚げた。
そして「何時でも御休み頂いて構いません」という態勢で居る。今日の見聞等は、後で改めて綴ることとしたい。想った以上に充実した期間を過ごしているように思う。
前日の午後から夜は風が強い様子だった。12階に在る宿の居室では、夜間に強風の音が少し聞こえていた。
前日は曇天で、天候は下り坂な傾向であるようだった。そういう中で深く眠った。典型的な「早寝早起き」である。早朝、雲が覆寝な戸外を窓から伺ったが、道路面が湿っている様子だった。それはそれとして、朝から動き回ることとした。
早朝、旭川駅から岩見沢駅へ列車で移動した。岩見沢駅では少し待ち時間も在った。そういう中で更に列車に乗って栗山駅へ向かった。
栗山では小林酒造を訪ねてみたかった。雨に濡れながら、道を間違えた場面も在ったが、無事に着いた。
やがて栗山の市街で喫茶店に入り、昼食を摂り、居合わせた方や御店の方と言葉を交わし、少し寛いだ。
栗山から岩見沢へ列車に乗ろうとしたが、その前に路線バスが現れたので乗ってみた。あのバスは寧ろ、岩見沢市内で賑わう感じのバスだった。列車の方が安価で速い。バスも、必ずしも本数は多くない。
岩見沢からは列車で旭川に引揚げた。旭川駅に着いて、その足で食事を摂ろうと街を歩いた。馴染んだ御店が営業していたので立寄った。ゆったりと食事を愉しんで宿に引揚げた。
そして「何時でも御休み頂いて構いません」という態勢で居る。今日の見聞等は、後で改めて綴ることとしたい。想った以上に充実した期間を過ごしているように思う。
栗山跨道橋…(2024.05.13)
栗山駅到着…(2024.05.13)
夕べに…(2024.05.10)
「三浦商店」の面影…:<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>(2024.05.11)
小説『塩狩峠』の「クライマックス」の御当地である塩狩の地に<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>が在る。作者の三浦綾子が御夫妻で住んで居た家を移築した部分と新築部分からなる資料館である。
↓建物にこういう往年風な看板が掲出されている。
↓こういうモノも在る。
嘗ては煙草や塩は「専売制」で認可を受けた小売店で扱われることになっていた。実際にこういう看板が掲出されていたか否かは判らないが、三浦綾子はこの建物の家で「三浦商店」という雑貨店を営んでいた。日中は雑貨店を営み、夜には創作活動に勤しむというような暮らしだったようだ。
↓こういう、かなり懐かしい公衆電話も「展示品」になっている。嘗ては方々に、それこそ商店の片隅等にこんな公衆電話が設置されていた。
1999年にこの<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>が開館した時、当時は病身ながらも御存命であった三浦綾子が伴侶の三浦光世と共にここを訪れている。
↓これが三浦綾子が営んでいた「三浦商店」の雰囲気を再現した展示である。
↑この場所に三浦綾子が入っている写真が館内の展示に在った。「これ!懐かしい…」とでも言っているような感じで、嬉しそうに想い出多い旧宅の様子を眺める御本人の写真が館内にも展示されていた。
↓一寸した文具関係も扱っていたようだ。
<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>では、この「三浦商店」の部分迄は写真を撮って構わないようになっていたので撮った。自伝的作品である『道ありき』第2部に在るような物語の舞台となった場所だ。深い感慨と共に見学した。
こういう「作家に所縁の場所を活かした展示施設」というのも好いものだ。
↓建物にこういう往年風な看板が掲出されている。
↓こういうモノも在る。
嘗ては煙草や塩は「専売制」で認可を受けた小売店で扱われることになっていた。実際にこういう看板が掲出されていたか否かは判らないが、三浦綾子はこの建物の家で「三浦商店」という雑貨店を営んでいた。日中は雑貨店を営み、夜には創作活動に勤しむというような暮らしだったようだ。
↓こういう、かなり懐かしい公衆電話も「展示品」になっている。嘗ては方々に、それこそ商店の片隅等にこんな公衆電話が設置されていた。
1999年にこの<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>が開館した時、当時は病身ながらも御存命であった三浦綾子が伴侶の三浦光世と共にここを訪れている。
↓これが三浦綾子が営んでいた「三浦商店」の雰囲気を再現した展示である。
↑この場所に三浦綾子が入っている写真が館内の展示に在った。「これ!懐かしい…」とでも言っているような感じで、嬉しそうに想い出多い旧宅の様子を眺める御本人の写真が館内にも展示されていた。
↓一寸した文具関係も扱っていたようだ。
<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>では、この「三浦商店」の部分迄は写真を撮って構わないようになっていたので撮った。自伝的作品である『道ありき』第2部に在るような物語の舞台となった場所だ。深い感慨と共に見学した。
こういう「作家に所縁の場所を活かした展示施設」というのも好いものだ。
キハ40:急行<花たび そうや>:旭川駅…(2024.05.12)
JR北海道は旭川・稚内間で<花たび そうや>というイベント列車を運行している。土曜日に旭川から稚内へ向かい、日曜日に稚内から旭川に戻るというように運行されている。
今般はその列車が、キハ54ディーゼルカーの2輛連結の前後にキハ40ディーゼルカーを加えた4輛編成で運行されると聞いていた。前日に稚内入りしたその編成が旭川に引揚げて来る。駅に眺めに行くことも出来る様子だったので、足を運んで入場券を求めてホームに入り込んでみた。
↓「7番ホームに列車が参ります」ということになり、走行音が聞こえて列車が姿を見せ始めた。
↓次第に減速する。
↓停車した。
7番ホームは、少し後に名寄行の列車が出るので、それを待つ人たちが見受けられたが、自身を含む見物人も少し集まっていたような感じだった。
↓キハ40ディーゼルカーの独特な存在感が好い。最近は数が減っている車輛だ。
↓このキハ40ディーゼルカーは、嘗て宗谷線の急行列車として使用された車輛の外観を再現している。
↑宗谷線ではキハ261系ディーゼルカーによる特急列車が登場する以前、キハ40を改造した「キハ400」というディーゼルカーを用いた急行列車が運行されていた。その「キハ400」の外観をした車輛が先頭になって旭川駅に入って来ると聞き、観たかったのだ。丸いヘッドマークまで掲出され、嘗ての急行列車の雰囲気が強く醸し出されている。酷く懐かしいような気分になる外観だ。
↓大勢の乗客が下車して賑わった。やがて扉が閉まり、旭川駅のやや北側に在る車庫へ引揚げる。
↓ディーゼルカーは発進して速度を上げようとする時等に排気煙を上げる。
↓時にはこういうような様子を眺めるのも愉しいものだ。
<花たび そうや>は、この土日が今季最初の運行であった。何回か運行されるので、稚内で眺める機会も設けられるかもしれない。
今般はその列車が、キハ54ディーゼルカーの2輛連結の前後にキハ40ディーゼルカーを加えた4輛編成で運行されると聞いていた。前日に稚内入りしたその編成が旭川に引揚げて来る。駅に眺めに行くことも出来る様子だったので、足を運んで入場券を求めてホームに入り込んでみた。
↓「7番ホームに列車が参ります」ということになり、走行音が聞こえて列車が姿を見せ始めた。
↓次第に減速する。
↓停車した。
7番ホームは、少し後に名寄行の列車が出るので、それを待つ人たちが見受けられたが、自身を含む見物人も少し集まっていたような感じだった。
↓キハ40ディーゼルカーの独特な存在感が好い。最近は数が減っている車輛だ。
↓このキハ40ディーゼルカーは、嘗て宗谷線の急行列車として使用された車輛の外観を再現している。
↑宗谷線ではキハ261系ディーゼルカーによる特急列車が登場する以前、キハ40を改造した「キハ400」というディーゼルカーを用いた急行列車が運行されていた。その「キハ400」の外観をした車輛が先頭になって旭川駅に入って来ると聞き、観たかったのだ。丸いヘッドマークまで掲出され、嘗ての急行列車の雰囲気が強く醸し出されている。酷く懐かしいような気分になる外観だ。
↓大勢の乗客が下車して賑わった。やがて扉が閉まり、旭川駅のやや北側に在る車庫へ引揚げる。
↓ディーゼルカーは発進して速度を上げようとする時等に排気煙を上げる。
↓時にはこういうような様子を眺めるのも愉しいものだ。
<花たび そうや>は、この土日が今季最初の運行であった。何回か運行されるので、稚内で眺める機会も設けられるかもしれない。
737系電車…:早朝の旭川駅(2024.05.12)
旭川駅を発とうとしていた時だった。
↓見慣れない車輛が在るので、乗車する訳でもないのだが、一寸近くへ行ってみた。
↑「電化区間」の旭川・岩見沢間で走る電車だ。
↓最低2輛で動くようになっているようだ。737系電車である。
従前の721系をこの737系に置き換えている様子だ。少し見掛ける機会も増えている。興味深い。
↓見慣れない車輛が在るので、乗車する訳でもないのだが、一寸近くへ行ってみた。
↑「電化区間」の旭川・岩見沢間で走る電車だ。
↓最低2輛で動くようになっているようだ。737系電車である。
従前の721系をこの737系に置き換えている様子だ。少し見掛ける機会も増えている。興味深い。
「文学紀行」…?=運行日誌(2024.05.12)
「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で寛いでいる。宿の居室に在る。簡単に綴っておきたい。
前日の宿の居室では、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で寛いだ。そして早目に休んでしまった。宿に入った後、別段に居室から出ていない。
そういう感じで深夜帯に目覚めた。少し長く眠っているので、速やかに再度眠るということも叶わず、暫く起きて居た。やがて眠気が射し、ベッドに横たわった。
そして早起きして午前6時台には既に動いていた。目指したのは上富良野だ。早朝の列車で向かい、昼に引揚げるという計画で動いた。
上富良野という場所は、明治時代後期からの入植の経過が在った後、「大正泥流」の甚大な被害が在り、そこから復興している。「開拓」を「2回」もやっているような面が在る。
そういう経過が判る資料館を訪ねたかった。上富良野駅から3km弱らしい。これを歩いて往復した。
更に上富良野神社を訪ね、古い役場の庁舎を模したという建物の郷土館を訪ねた。
郷土館では、「大正泥流」の日だった「5月24日」にその時代の物語を伝える紙芝居を上演するということで、関係者の皆さんがリハーサルをしていた。観て構わないということで、拝見した。興味深かった。関係者の皆さんも、「見知らぬ旅行中のおっちゃん」が約1名、真面目に聴いているという様子であれば「本番に向けたリハーサルとして好適」と考えて下さったようだ。
紙芝居にも話題が在った。「大正泥流」の頃、凄まじい破壊力の泥流で、鉄道の線路が「底から抉って持ち上げられた」というように破壊された。これを数百人の作業員による工事で、数日で列車が通れる程度に復旧したという。何やら凄い。この破壊された鉄路に関して、モノが郷土館にも展示されていた。郷土館の方とも言葉を交わし、なかなかに愉しかった。
結局、『泥流地帯』、『続 泥流地帯』を興味深く読み、それで覚えた興味を満たすという感じで上富良野を訪れた。或る種の「文学紀行」をしたということかもしれない。
往時、大切な輸送手段として、災害で「とんでもない状態」になったモノを懸命に復旧した歴史に触れた。少し複雑な想いが湧いた。近年は、災害で傷んだ鉄路がなかなか復旧せず、何やら廃線になっているという例が目立つような気がしたからだ。
その復旧の歴史が在る鉄路で旭川に引揚げて少しゆっくりしていた。やがて夕方、午後4時台に旭川駅へ足を運んで入場券で入った。<花たび そうや>が稚内から旭川に帰って来るのだ。今般、キハ54の2輛連結の前後にキハ40を連結ということだったのだが、旭川に向かう際に先頭になるキハ40が好い。嘗て、宗谷線にキハ261系ディーゼルカーの特急列車が登場する前に走っていた急行列車で使用されていた車輛の外観を再現したというモノである。これを観に行ったのだ。何か嬉しかった。嘗ての急行列車には、丸いヘッドマークが掲出されていたが、今般も<花たび そうや>の丸いヘッドマークが掲出されて「雰囲気満点」だった。
実は上富良野から引揚げた後、宿の居室に入った際に30分間程の居眠りに及んだ。そんな訳で、暗くなる前から宿で寛いで居る。今般の見聞等は順次綴りたい。
「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢なので、眠気が強まれば抗わずに休む。
前日の宿の居室では、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で寛いだ。そして早目に休んでしまった。宿に入った後、別段に居室から出ていない。
そういう感じで深夜帯に目覚めた。少し長く眠っているので、速やかに再度眠るということも叶わず、暫く起きて居た。やがて眠気が射し、ベッドに横たわった。
そして早起きして午前6時台には既に動いていた。目指したのは上富良野だ。早朝の列車で向かい、昼に引揚げるという計画で動いた。
上富良野という場所は、明治時代後期からの入植の経過が在った後、「大正泥流」の甚大な被害が在り、そこから復興している。「開拓」を「2回」もやっているような面が在る。
そういう経過が判る資料館を訪ねたかった。上富良野駅から3km弱らしい。これを歩いて往復した。
更に上富良野神社を訪ね、古い役場の庁舎を模したという建物の郷土館を訪ねた。
郷土館では、「大正泥流」の日だった「5月24日」にその時代の物語を伝える紙芝居を上演するということで、関係者の皆さんがリハーサルをしていた。観て構わないということで、拝見した。興味深かった。関係者の皆さんも、「見知らぬ旅行中のおっちゃん」が約1名、真面目に聴いているという様子であれば「本番に向けたリハーサルとして好適」と考えて下さったようだ。
紙芝居にも話題が在った。「大正泥流」の頃、凄まじい破壊力の泥流で、鉄道の線路が「底から抉って持ち上げられた」というように破壊された。これを数百人の作業員による工事で、数日で列車が通れる程度に復旧したという。何やら凄い。この破壊された鉄路に関して、モノが郷土館にも展示されていた。郷土館の方とも言葉を交わし、なかなかに愉しかった。
結局、『泥流地帯』、『続 泥流地帯』を興味深く読み、それで覚えた興味を満たすという感じで上富良野を訪れた。或る種の「文学紀行」をしたということかもしれない。
往時、大切な輸送手段として、災害で「とんでもない状態」になったモノを懸命に復旧した歴史に触れた。少し複雑な想いが湧いた。近年は、災害で傷んだ鉄路がなかなか復旧せず、何やら廃線になっているという例が目立つような気がしたからだ。
その復旧の歴史が在る鉄路で旭川に引揚げて少しゆっくりしていた。やがて夕方、午後4時台に旭川駅へ足を運んで入場券で入った。<花たび そうや>が稚内から旭川に帰って来るのだ。今般、キハ54の2輛連結の前後にキハ40を連結ということだったのだが、旭川に向かう際に先頭になるキハ40が好い。嘗て、宗谷線にキハ261系ディーゼルカーの特急列車が登場する前に走っていた急行列車で使用されていた車輛の外観を再現したというモノである。これを観に行ったのだ。何か嬉しかった。嘗ての急行列車には、丸いヘッドマークが掲出されていたが、今般も<花たび そうや>の丸いヘッドマークが掲出されて「雰囲気満点」だった。
実は上富良野から引揚げた後、宿の居室に入った際に30分間程の居眠りに及んだ。そんな訳で、暗くなる前から宿で寛いで居る。今般の見聞等は順次綴りたい。
「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢なので、眠気が強まれば抗わずに休む。
<十勝岳爆発災害復興60周年記念 『泥流地帯』>の文学碑…(2024.05.12)
↓こういう碑が在る。
「三重団体」と呼び習わされた三重県からの入植者達が拓いたという地区の一隅が<上富良野町開拓歴史広場>となっている。入植者達による開拓、更に「大正泥流」からの復興の努力と、上富良野は「2回の開拓」というような経過を辿っている。そうした歴史を伝えようということである。その辺りにこの文学碑が在る。
↓『泥流地帯』の終盤に近い辺り、泥流災害が発生してしまった辺りの描写が文学碑には刻まれている。
↓1984(昭和59)年に碑を建立したようだ。
小説を読んで「何時かは上富良野を訪ねる」と思っていて、物語の背景とされた時代のこと等が紹介されている辺りに、この文学碑が据えられているのは心動かされる。
「三重団体」と呼び習わされた三重県からの入植者達が拓いたという地区の一隅が<上富良野町開拓歴史広場>となっている。入植者達による開拓、更に「大正泥流」からの復興の努力と、上富良野は「2回の開拓」というような経過を辿っている。そうした歴史を伝えようということである。その辺りにこの文学碑が在る。
↓『泥流地帯』の終盤に近い辺り、泥流災害が発生してしまった辺りの描写が文学碑には刻まれている。
↓1984(昭和59)年に碑を建立したようだ。
小説を読んで「何時かは上富良野を訪ねる」と思っていて、物語の背景とされた時代のこと等が紹介されている辺りに、この文学碑が据えられているのは心動かされる。
水田…:上富良野の風景…(2024.05.12)
随分と広大な地域が含まれる「上川地方」というモノは旭川を核に拡がる。その「上川地方」では様々な種類の米が栽培されている。米飯として消費する米ばかりではなく、もち米や酒米も栽培しているようだ。
「上川地方」や、北海道内の他の地域では、概ね5月中に水田に水を入れて田植えを始める。水が入ったばかりのような水田は美しいと思う。
↓そういう様子を見掛けた。暫し佇んで様子を眺めた。
↑水を入れたばかりのような水田の水面に天が映り込む。
この様子を見て小説の『続 泥流地帯』を思い出した。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は水田の復興に懸命だった。やがて「復興後、初めての収穫」が得られるようになって行く。水田を見掛けたのは、この『続 泥流地帯』のモデルになった「三重団体」と呼び習わされた農地という場所なのだ。
非常に美しいと思ったが、小説を読んでいた関係で心動かされたという面も在った。
「上川地方」や、北海道内の他の地域では、概ね5月中に水田に水を入れて田植えを始める。水が入ったばかりのような水田は美しいと思う。
↓そういう様子を見掛けた。暫し佇んで様子を眺めた。
↑水を入れたばかりのような水田の水面に天が映り込む。
この様子を見て小説の『続 泥流地帯』を思い出した。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は水田の復興に懸命だった。やがて「復興後、初めての収穫」が得られるようになって行く。水田を見掛けたのは、この『続 泥流地帯』のモデルになった「三重団体」と呼び習わされた農地という場所なのだ。
非常に美しいと思ったが、小説を読んでいた関係で心動かされたという面も在った。
十勝岳を遠くに望む…:上富良野の風景…(2024.05.12)
『泥流地帯』、『続 泥流地帯』という、実質的に「上下巻」のようになっている小説が在る。
上富良野の少し北に在る美瑛を訪ねたことが何度も在る。美瑛で人気の「青い池」だが、アレは十勝岳の噴火災害を想定した防災工事の結果として出来た池で、見た目が面白いので評判になったという場所だ。その「十勝岳の噴火災害を想定した防災工事」という中、記録されている中で最悪の被害が発生した「大正泥流」こと1926(大正15)年5月の災害という時期に題材を求めた物語として『泥流地帯』、が知られているということが話題になる。
『泥流地帯』、『続 泥流地帯』について美瑛で聞いた話しが切っ掛けで知ったのだが、物語の主な舞台となるのは上富良野である。作中には主人公の兄弟の隣人として、実在の村長をモデルにした劇中人物が登場する。未だ幼い村長の娘達が主人公達に懐き、そえが契機で隣人としての交流が始まる。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は災害で手放された水田の復興に必死に取組み、村の農地の復興に熱心な村長と共鳴するのであった。
この劇中人物のモデルとなった村長が建て、泥流災害の際に多少の被害を被りながらも残ったという貴重な家が、移築されて資料館になっている。上富良野に限らず、北海道内では方々の人達がグループになって入植し、開拓をして農業に従事というような例は多く在る。劇中人物のモデルとなった村長の吉田貞次郎自身も、両親の入植に伴って上富良野にやって来て育ったという人である。「三重団体」と呼び習わされ、三重県出身者のグループが開拓した地域が在る。入植者達の開拓の後、泥流災害からの復興は「第2次開拓」というような事柄な訳で、そういう経過を紹介している資料館が、「三重団体」が活動していた辺りの一隅に在る。
その資料館だが、上富良野駅から3km弱の場所だ。旭川・富良野間の道路に出て道なりに進むと在ると、地図を見て知った。朝、上富良野駅に着いてからゆっくり歩いて資料館に向かい、見学をしてから上富良野駅側へ引揚げ、更に歩き廻って昼頃の列車で旭川へ引揚げると好いと思い付いた訳だ。
前置きが非常に長くなってしまった。
↓駅から資料館を目指した際に足を停めて眺めた様子だ。
↑遠くの山並みの中で、薄く噴煙が見えるのが十勝岳であると見受けられる。
泥流災害から懸命に復興し、上富良野は「豊かな農業地域」というような様相になっている。遠くに十勝岳を望む中に種々の畑等が広がっているという様が「上富良野らしい」と思った。
↓多少、雲が多い。が、雲の感じも面白いと思った。
旭川・富良野間の道路の端、歩道を進んでいたが、目指す資料館が間違いなく在るのか不安も覚えた。「770m」と案内看板で出ていて大いに安堵し、歩調が多少速まった。
↓資料館を訪ねた後、また上富良野駅側へ歩いた。再び「上富良野らしい」と思った様を眺めた。
↓薄く噴煙が上がる山を望みながら、人々の営みが営々と続くのだ。
正直、後から「足取りがやや重くなる…」という程度に歩いたのだが、御蔭で上富良野が忘れ難い場所になったように思う。馴染の薄い地域は、歩き廻ると発見も多いと思う。
上富良野の少し北に在る美瑛を訪ねたことが何度も在る。美瑛で人気の「青い池」だが、アレは十勝岳の噴火災害を想定した防災工事の結果として出来た池で、見た目が面白いので評判になったという場所だ。その「十勝岳の噴火災害を想定した防災工事」という中、記録されている中で最悪の被害が発生した「大正泥流」こと1926(大正15)年5月の災害という時期に題材を求めた物語として『泥流地帯』、が知られているということが話題になる。
『泥流地帯』、『続 泥流地帯』について美瑛で聞いた話しが切っ掛けで知ったのだが、物語の主な舞台となるのは上富良野である。作中には主人公の兄弟の隣人として、実在の村長をモデルにした劇中人物が登場する。未だ幼い村長の娘達が主人公達に懐き、そえが契機で隣人としての交流が始まる。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は災害で手放された水田の復興に必死に取組み、村の農地の復興に熱心な村長と共鳴するのであった。
この劇中人物のモデルとなった村長が建て、泥流災害の際に多少の被害を被りながらも残ったという貴重な家が、移築されて資料館になっている。上富良野に限らず、北海道内では方々の人達がグループになって入植し、開拓をして農業に従事というような例は多く在る。劇中人物のモデルとなった村長の吉田貞次郎自身も、両親の入植に伴って上富良野にやって来て育ったという人である。「三重団体」と呼び習わされ、三重県出身者のグループが開拓した地域が在る。入植者達の開拓の後、泥流災害からの復興は「第2次開拓」というような事柄な訳で、そういう経過を紹介している資料館が、「三重団体」が活動していた辺りの一隅に在る。
その資料館だが、上富良野駅から3km弱の場所だ。旭川・富良野間の道路に出て道なりに進むと在ると、地図を見て知った。朝、上富良野駅に着いてからゆっくり歩いて資料館に向かい、見学をしてから上富良野駅側へ引揚げ、更に歩き廻って昼頃の列車で旭川へ引揚げると好いと思い付いた訳だ。
前置きが非常に長くなってしまった。
↓駅から資料館を目指した際に足を停めて眺めた様子だ。
↑遠くの山並みの中で、薄く噴煙が見えるのが十勝岳であると見受けられる。
泥流災害から懸命に復興し、上富良野は「豊かな農業地域」というような様相になっている。遠くに十勝岳を望む中に種々の畑等が広がっているという様が「上富良野らしい」と思った。
↓多少、雲が多い。が、雲の感じも面白いと思った。
旭川・富良野間の道路の端、歩道を進んでいたが、目指す資料館が間違いなく在るのか不安も覚えた。「770m」と案内看板で出ていて大いに安堵し、歩調が多少速まった。
↓資料館を訪ねた後、また上富良野駅側へ歩いた。再び「上富良野らしい」と思った様を眺めた。
↓薄く噴煙が上がる山を望みながら、人々の営みが営々と続くのだ。
正直、後から「足取りがやや重くなる…」という程度に歩いたのだが、御蔭で上富良野が忘れ難い場所になったように思う。馴染の薄い地域は、歩き廻ると発見も多いと思う。
上富良野駅到着…(2024.05.12)
↓静かな駅ながら、富良野方面へ出ようとする高校生位と見受けられる若者達が何人か乗車した。彼らが乗車しようと待っている中で下車した。そして彼らが乗り込んで車輛の扉が閉まった。
↓駅の出口は跨線橋を渡った先だ。跨線橋から、乗って来たH100形が富良野方面へ去って行く様を見送った。
↓最近の旭川・富良野間では、このH100形が主流、と言うより「専ら」というようになっていると思う。
↓駅舎側に駅名標が掲げられている。
↑北海道内の駅では御馴染のビール会社の広告が在るが、上富良野はビールの材料の一つであるホップを栽培していると聞く。
↓掲出された時刻表だ。やや運行間隔が広い感じだ。
↓運賃表が掲出されている。
↓平日の日中は窓口が開いていて係員が居るが、日曜日や祝日は居ない。そこでこの券売機が活躍である。
↓古くは急行列車も停車する駅であったという。現在では「半ば無人駅」という様子である。他方、駅の真前にタクシーは半ば常駐していた。
富良野や、(現在は廃線で行けないが…)新得との間を往来した際、この上富良野駅の辺りは間違いなく通過している。が、駅で列車を下りた経過は無い。「訪ねてみよう」とでも思えば、何かの序でというのでもなく、随意に動くことの出来る時に一寸計画して寄ってみる他に訪ねる機会も術も無いような場所だと思う。
今般、「想い」も在って、上富良野を訪ねてみたのだった。
↓駅の出口は跨線橋を渡った先だ。跨線橋から、乗って来たH100形が富良野方面へ去って行く様を見送った。
↓最近の旭川・富良野間では、このH100形が主流、と言うより「専ら」というようになっていると思う。
↓駅舎側に駅名標が掲げられている。
↑北海道内の駅では御馴染のビール会社の広告が在るが、上富良野はビールの材料の一つであるホップを栽培していると聞く。
↓掲出された時刻表だ。やや運行間隔が広い感じだ。
↓運賃表が掲出されている。
↓平日の日中は窓口が開いていて係員が居るが、日曜日や祝日は居ない。そこでこの券売機が活躍である。
↓古くは急行列車も停車する駅であったという。現在では「半ば無人駅」という様子である。他方、駅の真前にタクシーは半ば常駐していた。
富良野や、(現在は廃線で行けないが…)新得との間を往来した際、この上富良野駅の辺りは間違いなく通過している。が、駅で列車を下りた経過は無い。「訪ねてみよう」とでも思えば、何かの序でというのでもなく、随意に動くことの出来る時に一寸計画して寄ってみる他に訪ねる機会も術も無いような場所だと思う。
今般、「想い」も在って、上富良野を訪ねてみたのだった。
朝の旭川駅を発つ…(2024.05.12)
↓日曜日の午前6時台である。旭川駅の辺りは殊更に静かな感じだ。
↓切符を求めて改札口を潜る。
↓ホームへ続く通路に続く辺りが、何となく豪華な感じで気に入っている。
↓富良野行の列車に乗る。
↓「6:41 FURANO」を待つことになる。
↓エスカレータでホームに上る。
↓乗務員も待機している中、列車が登場した。
↓停車に向けて減速する。
↓乗務員が準備をして、間もなく乗車可能になる。
↓「一番乗り」だったので車輛の中の様子を写真に収めた。H100形は1列座席と2列座席を組合わせ、更にロングシートが在るという内装だ。そう言えばキハ150もそういうような感じだったと思い出した。
今般は、この列車で上富良野駅を目指す。
↓切符を求めて改札口を潜る。
↓ホームへ続く通路に続く辺りが、何となく豪華な感じで気に入っている。
↓富良野行の列車に乗る。
↓「6:41 FURANO」を待つことになる。
↓エスカレータでホームに上る。
↓乗務員も待機している中、列車が登場した。
↓停車に向けて減速する。
↓乗務員が準備をして、間もなく乗車可能になる。
↓「一番乗り」だったので車輛の中の様子を写真に収めた。H100形は1列座席と2列座席を組合わせ、更にロングシートが在るという内装だ。そう言えばキハ150もそういうような感じだったと思い出した。
今般は、この列車で上富良野駅を目指す。
建物…:<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>(2024.05.11)
↓塩狩駅の直ぐ傍に看板が在る。
↓小高くなった辺りに建物が在る。
↓こういう建物で、<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>ということになる。
三浦綾子は3冊組の『道ありき』という自伝的作品を綴っている。その第2部に、眼前の建物に纏わる事柄が詳しく綴られていた。
『道ありき』の第1部、第2部は、「主人公の“綾子”が、教員の職を辞した後、考えていた結婚を病気の故に諦めるが、長い療養生活の中で伴侶に巡り合い、結婚する。そして小説家になって行く」という“小説”という風で非常に興味深い。
結婚後、最初に住んで居た借家を出るということになった際、住まいを見出そうとするのだが、結局「思い切って建てよう」ということになった。それがこの建物で、三浦綾子はここで「三浦商店」という雑貨店を営み、傍らで創作活動もしていた。懸賞小説で、三浦綾子が作家デビューする契機となった『氷点』は、この家で綴られていた。懸賞小説の「12月31日消印有効」という当日、深夜2時頃に完成し、パートナーの三浦光世が街の郵便局の本局へ足を運んで送ったらしい。それが「作家三浦綾子」の登場への道を拓いたことになる。
↓聖書の言葉や教会の催事案内を貼り出したという小さな掲示板も再現されている。味わいの在る建物だと思った。
1970年代に夫妻は別な家に移った。年月を経て、この建物が解体されることになった時、想い出多い家が完全に姿を消すことを夫妻は酷く惜しんでいたのだという。そこで有志が「あの『氷点』が綴られた家」ということで、部材が綺麗に残るように手作業で解体して部材を保管したのだという。
この家では、非常によく知られた作品である『塩狩峠』も綴られた。それを踏まえ、この塩狩に家を再建した。新築部分の展示交流コーナーと合わせて<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>ということになり、1999年4月にオープンした。
オープンの際には三浦夫妻も訪れている。三浦綾子は、当時は病身であって、その年の10月に他界してしまった。オープンの際の写真が館内に在った。想い出多い家で嬉しそうな三浦綾子の様子、傍らで見守る三浦光世の様子が凄く記憶に残る感じだ。
↓稚内から列車でここを訪れるのであれば、早朝の列車から乗り継いで塩狩に至り、昼の列車で旭川に出るというのが、開館時間の中で中を見学する最も現実的な方法だと思った。
色々な作品に親しんだ作家に所縁の場所を訪ねてみるのは興味深いものだ。
↓小高くなった辺りに建物が在る。
↓こういう建物で、<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>ということになる。
三浦綾子は3冊組の『道ありき』という自伝的作品を綴っている。その第2部に、眼前の建物に纏わる事柄が詳しく綴られていた。
『道ありき』の第1部、第2部は、「主人公の“綾子”が、教員の職を辞した後、考えていた結婚を病気の故に諦めるが、長い療養生活の中で伴侶に巡り合い、結婚する。そして小説家になって行く」という“小説”という風で非常に興味深い。
結婚後、最初に住んで居た借家を出るということになった際、住まいを見出そうとするのだが、結局「思い切って建てよう」ということになった。それがこの建物で、三浦綾子はここで「三浦商店」という雑貨店を営み、傍らで創作活動もしていた。懸賞小説で、三浦綾子が作家デビューする契機となった『氷点』は、この家で綴られていた。懸賞小説の「12月31日消印有効」という当日、深夜2時頃に完成し、パートナーの三浦光世が街の郵便局の本局へ足を運んで送ったらしい。それが「作家三浦綾子」の登場への道を拓いたことになる。
↓聖書の言葉や教会の催事案内を貼り出したという小さな掲示板も再現されている。味わいの在る建物だと思った。
1970年代に夫妻は別な家に移った。年月を経て、この建物が解体されることになった時、想い出多い家が完全に姿を消すことを夫妻は酷く惜しんでいたのだという。そこで有志が「あの『氷点』が綴られた家」ということで、部材が綺麗に残るように手作業で解体して部材を保管したのだという。
この家では、非常によく知られた作品である『塩狩峠』も綴られた。それを踏まえ、この塩狩に家を再建した。新築部分の展示交流コーナーと合わせて<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>ということになり、1999年4月にオープンした。
オープンの際には三浦夫妻も訪れている。三浦綾子は、当時は病身であって、その年の10月に他界してしまった。オープンの際の写真が館内に在った。想い出多い家で嬉しそうな三浦綾子の様子、傍らで見守る三浦光世の様子が凄く記憶に残る感じだ。
↓稚内から列車でここを訪れるのであれば、早朝の列車から乗り継いで塩狩に至り、昼の列車で旭川に出るというのが、開館時間の中で中を見学する最も現実的な方法だと思った。
色々な作品に親しんだ作家に所縁の場所を訪ねてみるのは興味深いものだ。
塩狩駅到着…(2024.05.11)
↓静かな駅で下車した。
↓早朝の稚内駅を発って名寄駅に到ると、このキハ54ディーゼルカーは名寄駅の3番線で待機する。やがて、旭川駅へ向かう快速列車となる。
↑早朝からずっと御世話になった車輛を眺めた。
↓塩狩駅に到った。
↑「天塩国」と「石狩国」の境界辺りということで「塩狩峠」と呼ばれる辺り、峠を上った辺りに在る駅だ。駅名は「塩狩峠」に因むモノなのであろう。信号所であった場所を駅にしているそうだ。
↓旭川方面へ進むキハ54ディーゼルカーを見送った。
↓振り向けば駅舎が在る。無人駅だ。
↓基本的に列車の乗降は駅舎前の1番ホームだが、一部の列車が2番ホームになる旨の案内が出ている。この場所で列車の行き違いが在るためだ。
何度となく稚内・旭川間を列車で移動しており、その都度にこの塩狩駅の辺りは通り過ぎている。初めてこの駅で下車してみた。
↓早朝の稚内駅を発って名寄駅に到ると、このキハ54ディーゼルカーは名寄駅の3番線で待機する。やがて、旭川駅へ向かう快速列車となる。
↑早朝からずっと御世話になった車輛を眺めた。
↓塩狩駅に到った。
↑「天塩国」と「石狩国」の境界辺りということで「塩狩峠」と呼ばれる辺り、峠を上った辺りに在る駅だ。駅名は「塩狩峠」に因むモノなのであろう。信号所であった場所を駅にしているそうだ。
↓旭川方面へ進むキハ54ディーゼルカーを見送った。
↓振り向けば駅舎が在る。無人駅だ。
↓基本的に列車の乗降は駅舎前の1番ホームだが、一部の列車が2番ホームになる旨の案内が出ている。この場所で列車の行き違いが在るためだ。
何度となく稚内・旭川間を列車で移動しており、その都度にこの塩狩駅の辺りは通り過ぎている。初めてこの駅で下車してみた。
旭川駅…(2024.05.11)
旭川駅到着…(2024.05.11)
<第一市場>:旭川銀座商店街(2024.05.11)
<銀座サウナ>:旭川銀座商店街(2024.05.11)
ランチ…(兼朝食):<ramo けいなのおばんざい>:旭川銀座商店街(2024.05.11)
旭川駅に到着したのは12時35分だった。5時21分に稚内駅を発つ列車に乗り、名寄駅で乗換列車を待つ間―稚内・名寄間で乗っていた車輛が待機していて、旭川行の列車になる…―に「キマロキ」を見学し、乗り込んだ列車で塩狩駅に到り、塩狩駅傍の<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>を見学し、そこで列車に乗って旭川駅に到ることとなったのだ。
その旭川駅から東側の方向へ歩を進め、旭川銀座商店街の辺りに至った時には午後1時15分位だった。何か食事を摂りたかった。飲物を飲んでいるばかりで、朝早くから食事は摂っていなかった。
↓何か感じが好さそうな御店に至った。
↓旭川銀座商店街の辺りで、少し古い建物を利用している御店である。
↓今年に入ってオープンしたという御店だった。
↓メニューを拝見した。何か「街の図書館の児童書コーナーに在る絵本」という雰囲気のメニューで愉しい。後で聴けば、店主氏が画を描いて作ったそうだ。素敵だと思った。
↓「定食編」ということで三択になっている。これから択び、食後に珈琲を頂くこととした。
↓そして登場した。
↑米飯は「大中小」を択ぶようになっている。「小」とした。
↓「つゆだく生姜焼き」の定食である。豚肉を焼いているのだが、タレが少し多目になっている。千切りキャベツと合わせて豚肉を摘まむと凄く美味い。
↓美味かった料理の余韻に浸りながら、これもまた美味しい珈琲を頂いた。
↓店名はスペイン語である。「ramo」(ラモ)は「枝」や「花束」という意味なのだそうだ。
↑「ramo」(ラモ)では「何の御店?」という感じにもなるので、食事を摂る御店ということで“副題”のように「けいなのおばんざい」というようにしたというが、方々で寧ろ「けいなのおばんざい」と紹介されているようだ。
↓名刺代わりに配っていたようだが、シールを訪問の記念に頂いた。
↑「HAVE A NICE DAY」と在るが、御蔭様で「好き日の愉しいランチ(兼朝食)」となった。
↓記憶に留めたい御店となった。
その旭川駅から東側の方向へ歩を進め、旭川銀座商店街の辺りに至った時には午後1時15分位だった。何か食事を摂りたかった。飲物を飲んでいるばかりで、朝早くから食事は摂っていなかった。
↓何か感じが好さそうな御店に至った。
↓旭川銀座商店街の辺りで、少し古い建物を利用している御店である。
↓今年に入ってオープンしたという御店だった。
↓メニューを拝見した。何か「街の図書館の児童書コーナーに在る絵本」という雰囲気のメニューで愉しい。後で聴けば、店主氏が画を描いて作ったそうだ。素敵だと思った。
↓「定食編」ということで三択になっている。これから択び、食後に珈琲を頂くこととした。
↓そして登場した。
↑米飯は「大中小」を択ぶようになっている。「小」とした。
↓「つゆだく生姜焼き」の定食である。豚肉を焼いているのだが、タレが少し多目になっている。千切りキャベツと合わせて豚肉を摘まむと凄く美味い。
↓美味かった料理の余韻に浸りながら、これもまた美味しい珈琲を頂いた。
↓店名はスペイン語である。「ramo」(ラモ)は「枝」や「花束」という意味なのだそうだ。
↑「ramo」(ラモ)では「何の御店?」という感じにもなるので、食事を摂る御店ということで“副題”のように「けいなのおばんざい」というようにしたというが、方々で寧ろ「けいなのおばんざい」と紹介されているようだ。
↓名刺代わりに配っていたようだが、シールを訪問の記念に頂いた。
↑「HAVE A NICE DAY」と在るが、御蔭様で「好き日の愉しいランチ(兼朝食)」となった。
↓記憶に留めたい御店となった。
「別宅」…?=運行日誌(2024.05.11)
「やや早い?」と思いながら、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢に入った。8℃程度であった地元を発ち、点いた場所では20℃を超えていて、何やら汗もかいた。サウナを利用して、敢えて汗をかいた場面も在ったが、20℃を超える中で歩き廻り、自然に汗もかき、衣類も湿った。
「多少勝手知った(つもりになっている)他所」という感の旭川、更に勝手ながら「別宅」と呼ぶ程度に馴染んでいる宿の居室で寛いで居る。
早朝の列車に乗るべく、「寝坊」に注意喚起という様子ではあったと思うが、然程の問題もなく早目に起き出した。天候は下り坂ということらしいが、稚内の朝は「やや雲は多いが暗くもない」という様子であった。パタパタと支度して稚内駅へ向かった。
早朝の普通列車は空いていた。美深・名寄間で多少乗客が増えたが、そこまでは乗客は少なく、何か「敢えて車輛を借り上げて移動」ということでもしているかのような気分になった。
名寄では「キマロキ」を見学した。豪雪への対応ということで使っていた特殊な編成で、先頭に9600形蒸気機関車が在る。アレが凄く気に入っている。そしてマックレー車やロータリー車という作業車輛が在って、後尾にD51形蒸気機関車が在る。各車輛の頭文字を取って「キマロキ」なのだ。
そして普通列車で塩狩へ向かった。塩狩で初めて下車した。かの三浦綾子の記念館を観たかったのだ。
三浦夫妻は結婚後、最初に住んで居た借家を出ることになった。色々と考えて、思い切って家を建てた。その家の一部で三浦綾子は<三浦商店>という雑貨店を営んだ。その住宅兼店舗であった建物が解体された時、想い出多い家を惜しむ三浦夫妻の心情を汲み、有志が部材が残るように丁寧に解体して保管していた。そして、三浦綾子の最も知られた作品の一つである『塩狩峠』に所縁の塩狩駅の近くに移築した訳だ。旧宅部分と、資料展示等の部分とが組合さった建物だ。三浦綾子は懸賞小説の入選を契機に小説家デビューする。その懸賞小説の『氷点』や、『塩狩峠』等を執筆していたのが、塩狩駅の傍に移築された家であったことになる。これはなかなかに興味深かった。
やがて旭川に到り、宿に入る迄の時間は旭川の街を歩き廻っていた。名寄や塩狩で少々、そして旭川でやや多く歩いた。明日以降の予定も在るので、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で、眠気が強くなった際に抗わないようにしようと思う。
見聞に関しては、写真を多く撮っている訳だが、何れゆっくりと整理する。「自由!」といきなり張り切ったというような感じだ。
「多少勝手知った(つもりになっている)他所」という感の旭川、更に勝手ながら「別宅」と呼ぶ程度に馴染んでいる宿の居室で寛いで居る。
早朝の列車に乗るべく、「寝坊」に注意喚起という様子ではあったと思うが、然程の問題もなく早目に起き出した。天候は下り坂ということらしいが、稚内の朝は「やや雲は多いが暗くもない」という様子であった。パタパタと支度して稚内駅へ向かった。
早朝の普通列車は空いていた。美深・名寄間で多少乗客が増えたが、そこまでは乗客は少なく、何か「敢えて車輛を借り上げて移動」ということでもしているかのような気分になった。
名寄では「キマロキ」を見学した。豪雪への対応ということで使っていた特殊な編成で、先頭に9600形蒸気機関車が在る。アレが凄く気に入っている。そしてマックレー車やロータリー車という作業車輛が在って、後尾にD51形蒸気機関車が在る。各車輛の頭文字を取って「キマロキ」なのだ。
そして普通列車で塩狩へ向かった。塩狩で初めて下車した。かの三浦綾子の記念館を観たかったのだ。
三浦夫妻は結婚後、最初に住んで居た借家を出ることになった。色々と考えて、思い切って家を建てた。その家の一部で三浦綾子は<三浦商店>という雑貨店を営んだ。その住宅兼店舗であった建物が解体された時、想い出多い家を惜しむ三浦夫妻の心情を汲み、有志が部材が残るように丁寧に解体して保管していた。そして、三浦綾子の最も知られた作品の一つである『塩狩峠』に所縁の塩狩駅の近くに移築した訳だ。旧宅部分と、資料展示等の部分とが組合さった建物だ。三浦綾子は懸賞小説の入選を契機に小説家デビューする。その懸賞小説の『氷点』や、『塩狩峠』等を執筆していたのが、塩狩駅の傍に移築された家であったことになる。これはなかなかに興味深かった。
やがて旭川に到り、宿に入る迄の時間は旭川の街を歩き廻っていた。名寄や塩狩で少々、そして旭川でやや多く歩いた。明日以降の予定も在るので、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で、眠気が強くなった際に抗わないようにしようと思う。
見聞に関しては、写真を多く撮っている訳だが、何れゆっくりと整理する。「自由!」といきなり張り切ったというような感じだ。
<X100F>…(2024.05.11)
夕べに…(2024.05.09)
前夜に…(2024.05.10)
少し今年のこれまでを振り返ってみる。
2024年は出先で迎え、1月冒頭は出先から引揚げる道中という時間を過ごした。
2月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出るという機会が在った。
3月には、別段に他地域へ出掛けたということは無かった。他方で各地で催される松山隆宏公演が稚内へやって来たので愉しんだというような機会は在ったのだったが。
4月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出て、その際に小樽へ足を延ばすという機会が在った。
こうして振り返ると「一貫して気儘に過ごす」ということ、巷間では寧ろ「旅行」というように言われる事柄という程でもないのかもしれないが、そこそこに他地域との間を往来しているような気もする。
「札幌へ所用」というのは、所謂「公私の別」ということでは「私」に該当する事柄だ。故に、特段に遠慮も会釈も無く、少しばかり時間を設けて、随意に過ごすようにもしている。
所用で他地域に出て、出た際に少しばかりの時間も設けて気儘に過ごすという時間も少し位は生じる。随分と以前からそういうのは変わらないかもしれないが、2019年頃から「私」に該当する事柄で他地域へ出る場面が増えた。逆に「公私の別」で「公」に該当する事柄で他地域へ出る場面は、殆ど見受けられなくなった。
2022年から2023年に掛けては、「私」に該当する事柄の中、少しばかり御縁が出来た地域へ「半ば所用」という様子で出る場合も在った。そういう「半ば所用」がとりあえず無くなっても、今度は「一貫して気儘に過ごす」ということで当該地域へ足を運んでみるような場合も在る。
想い起すと、4月初めに桜を愛でるべく出掛けてみたいというようなことも思ったが、以前から決まっている所用の予定も在ったので諦めてしまったということが在った。
更に5月に入り、連休という中で出掛けてみようかと思わないでもなかったが、交通機関や宿泊施設が混み合っているというような感じなので、アッサリと諦めた。地元は、5月冒頭に好天で会ったのだが、何やら酷く寒々しい感じになり、結局は拙宅の居室に半ば引き籠るかのような過ごし方に終始した。
そういう中、通常に日曜日と月曜日の休業日に加えて火曜日が都合による臨時休業日ということになった。巷では特段に連休でも何でもない期間だ。思い付いたのは、土曜日を随意に過ごすことが出来るようにすると、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設けることが叶う」ということになる。
こうした情況が生じたのであれば、その「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」を実践してみたくなる。
「何かをする」ということに関連して、「時間が在れば」、「機会が在れば」というようなことをよく言うと思う。文字どおりに「時間が在れば」、「機会が在れば」という事情も在るのかもしれないのだが、結局“時間”や“機会”は「設けるべき」なモノだ。その辺に“時間”や“機会”が転がっている筈もない。自ら積極的に見出す筋合いなのだと思う。
今般は「一貫して気儘に過ごす」という“時間”や“機会”について、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」ことが叶う情況になったことから、それを掴んでみることとした。
他地域へ出掛けて「気儘に過ごす」という営為は、巷間では寧ろ「旅行」というように言われるのだと思う。が、自身の勝手な理解の中では、「旅行」の中には「随意に過ごす訳にも行かない場合」も混じっていると観る。
所謂“出張”というモノは、公式には「業務旅行」、「公務旅行」というような言い方になるのだと思う。日頃の仕事の場所から離れた場所に出掛けて仕事をするということに関して、「旅行命令」というような書類が或る筈で、そこから「旅費支給・精算」というような事務が発生するのが普通である筈だ。
自身が「他地域へ出掛けて気儘に過ごす」というように表現する営為は、そうしたモノとは明らかに異なる。全く「随意」に動き廻って構わないのである。今般の場合、「土曜日から火曜日迄」という期間、可能な限りに遠くへ出るのも、然程でもない辺りに出てゆったりするのでも、随意に決めて構わず、極端な話し「西へ向かおうと出発して、不意に東へ向かってしまう」という俄かな転進さえ差し支えないのだ。「儂は“ふりぃ”じゃけん!」とか「自らを由とする。自由!それがFree!」というような、何本も観ている幕末期を背景とする物語の映画やドラマで劇中人物達が叫んだ台詞を思い出す。
偶々という感じでもあるが、「自由に創る時間」というモノを掴み獲ることが叶った感で、何か凄く昂っている。
2024年は出先で迎え、1月冒頭は出先から引揚げる道中という時間を過ごした。
2月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出るという機会が在った。
3月には、別段に他地域へ出掛けたということは無かった。他方で各地で催される松山隆宏公演が稚内へやって来たので愉しんだというような機会は在ったのだったが。
4月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出て、その際に小樽へ足を延ばすという機会が在った。
こうして振り返ると「一貫して気儘に過ごす」ということ、巷間では寧ろ「旅行」というように言われる事柄という程でもないのかもしれないが、そこそこに他地域との間を往来しているような気もする。
「札幌へ所用」というのは、所謂「公私の別」ということでは「私」に該当する事柄だ。故に、特段に遠慮も会釈も無く、少しばかり時間を設けて、随意に過ごすようにもしている。
所用で他地域に出て、出た際に少しばかりの時間も設けて気儘に過ごすという時間も少し位は生じる。随分と以前からそういうのは変わらないかもしれないが、2019年頃から「私」に該当する事柄で他地域へ出る場面が増えた。逆に「公私の別」で「公」に該当する事柄で他地域へ出る場面は、殆ど見受けられなくなった。
2022年から2023年に掛けては、「私」に該当する事柄の中、少しばかり御縁が出来た地域へ「半ば所用」という様子で出る場合も在った。そういう「半ば所用」がとりあえず無くなっても、今度は「一貫して気儘に過ごす」ということで当該地域へ足を運んでみるような場合も在る。
想い起すと、4月初めに桜を愛でるべく出掛けてみたいというようなことも思ったが、以前から決まっている所用の予定も在ったので諦めてしまったということが在った。
更に5月に入り、連休という中で出掛けてみようかと思わないでもなかったが、交通機関や宿泊施設が混み合っているというような感じなので、アッサリと諦めた。地元は、5月冒頭に好天で会ったのだが、何やら酷く寒々しい感じになり、結局は拙宅の居室に半ば引き籠るかのような過ごし方に終始した。
そういう中、通常に日曜日と月曜日の休業日に加えて火曜日が都合による臨時休業日ということになった。巷では特段に連休でも何でもない期間だ。思い付いたのは、土曜日を随意に過ごすことが出来るようにすると、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設けることが叶う」ということになる。
こうした情況が生じたのであれば、その「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」を実践してみたくなる。
「何かをする」ということに関連して、「時間が在れば」、「機会が在れば」というようなことをよく言うと思う。文字どおりに「時間が在れば」、「機会が在れば」という事情も在るのかもしれないのだが、結局“時間”や“機会”は「設けるべき」なモノだ。その辺に“時間”や“機会”が転がっている筈もない。自ら積極的に見出す筋合いなのだと思う。
今般は「一貫して気儘に過ごす」という“時間”や“機会”について、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」ことが叶う情況になったことから、それを掴んでみることとした。
他地域へ出掛けて「気儘に過ごす」という営為は、巷間では寧ろ「旅行」というように言われるのだと思う。が、自身の勝手な理解の中では、「旅行」の中には「随意に過ごす訳にも行かない場合」も混じっていると観る。
所謂“出張”というモノは、公式には「業務旅行」、「公務旅行」というような言い方になるのだと思う。日頃の仕事の場所から離れた場所に出掛けて仕事をするということに関して、「旅行命令」というような書類が或る筈で、そこから「旅費支給・精算」というような事務が発生するのが普通である筈だ。
自身が「他地域へ出掛けて気儘に過ごす」というように表現する営為は、そうしたモノとは明らかに異なる。全く「随意」に動き廻って構わないのである。今般の場合、「土曜日から火曜日迄」という期間、可能な限りに遠くへ出るのも、然程でもない辺りに出てゆったりするのでも、随意に決めて構わず、極端な話し「西へ向かおうと出発して、不意に東へ向かってしまう」という俄かな転進さえ差し支えないのだ。「儂は“ふりぃ”じゃけん!」とか「自らを由とする。自由!それがFree!」というような、何本も観ている幕末期を背景とする物語の映画やドラマで劇中人物達が叫んだ台詞を思い出す。
偶々という感じでもあるが、「自由に創る時間」というモノを掴み獲ることが叶った感で、何か凄く昂っている。