737系電車…:早朝の旭川駅(2024.05.12)

旭川駅を発とうとしていた時だった。

↓見慣れない車輛が在るので、乗車する訳でもないのだが、一寸近くへ行ってみた。
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↑「電化区間」の旭川・岩見沢間で走る電車だ。

↓最低2輛で動くようになっているようだ。737系電車である。
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従前の721系をこの737系に置き換えている様子だ。少し見掛ける機会も増えている。興味深い。

「文学紀行」…?=運行日誌(2024.05.12)

「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で寛いでいる。宿の居室に在る。簡単に綴っておきたい。

前日の宿の居室では、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で寛いだ。そして早目に休んでしまった。宿に入った後、別段に居室から出ていない。

そういう感じで深夜帯に目覚めた。少し長く眠っているので、速やかに再度眠るということも叶わず、暫く起きて居た。やがて眠気が射し、ベッドに横たわった。

そして早起きして午前6時台には既に動いていた。目指したのは上富良野だ。早朝の列車で向かい、昼に引揚げるという計画で動いた。

上富良野という場所は、明治時代後期からの入植の経過が在った後、「大正泥流」の甚大な被害が在り、そこから復興している。「開拓」を「2回」もやっているような面が在る。

そういう経過が判る資料館を訪ねたかった。上富良野駅から3km弱らしい。これを歩いて往復した。

更に上富良野神社を訪ね、古い役場の庁舎を模したという建物の郷土館を訪ねた。

郷土館では、「大正泥流」の日だった「5月24日」にその時代の物語を伝える紙芝居を上演するということで、関係者の皆さんがリハーサルをしていた。観て構わないということで、拝見した。興味深かった。関係者の皆さんも、「見知らぬ旅行中のおっちゃん」が約1名、真面目に聴いているという様子であれば「本番に向けたリハーサルとして好適」と考えて下さったようだ。

紙芝居にも話題が在った。「大正泥流」の頃、凄まじい破壊力の泥流で、鉄道の線路が「底から抉って持ち上げられた」というように破壊された。これを数百人の作業員による工事で、数日で列車が通れる程度に復旧したという。何やら凄い。この破壊された鉄路に関して、モノが郷土館にも展示されていた。郷土館の方とも言葉を交わし、なかなかに愉しかった。

結局、『泥流地帯』、『続 泥流地帯』を興味深く読み、それで覚えた興味を満たすという感じで上富良野を訪れた。或る種の「文学紀行」をしたということかもしれない。

往時、大切な輸送手段として、災害で「とんでもない状態」になったモノを懸命に復旧した歴史に触れた。少し複雑な想いが湧いた。近年は、災害で傷んだ鉄路がなかなか復旧せず、何やら廃線になっているという例が目立つような気がしたからだ。

その復旧の歴史が在る鉄路で旭川に引揚げて少しゆっくりしていた。やがて夕方、午後4時台に旭川駅へ足を運んで入場券で入った。<花たび そうや>が稚内から旭川に帰って来るのだ。今般、キハ54の2輛連結の前後にキハ40を連結ということだったのだが、旭川に向かう際に先頭になるキハ40が好い。嘗て、宗谷線にキハ261系ディーゼルカーの特急列車が登場する前に走っていた急行列車で使用されていた車輛の外観を再現したというモノである。これを観に行ったのだ。何か嬉しかった。嘗ての急行列車には、丸いヘッドマークが掲出されていたが、今般も<花たび そうや>の丸いヘッドマークが掲出されて「雰囲気満点」だった。

実は上富良野から引揚げた後、宿の居室に入った際に30分間程の居眠りに及んだ。そんな訳で、暗くなる前から宿で寛いで居る。今般の見聞等は順次綴りたい。

「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢なので、眠気が強まれば抗わずに休む。

<十勝岳爆発災害復興60周年記念 『泥流地帯』>の文学碑…(2024.05.12)

↓こういう碑が在る。
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「三重団体」と呼び習わされた三重県からの入植者達が拓いたという地区の一隅が<上富良野町開拓歴史広場>となっている。入植者達による開拓、更に「大正泥流」からの復興の努力と、上富良野は「2回の開拓」というような経過を辿っている。そうした歴史を伝えようということである。その辺りにこの文学碑が在る。

『泥流地帯』の終盤に近い辺り、泥流災害が発生してしまった辺りの描写が文学碑には刻まれている。
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↓1984(昭和59)年に碑を建立したようだ。
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小説を読んで「何時かは上富良野を訪ねる」と思っていて、物語の背景とされた時代のこと等が紹介されている辺りに、この文学碑が据えられているのは心動かされる。

水田…:上富良野の風景…(2024.05.12)

随分と広大な地域が含まれる「上川地方」というモノは旭川を核に拡がる。その「上川地方」では様々な種類の米が栽培されている。米飯として消費する米ばかりではなく、もち米や酒米も栽培しているようだ。

「上川地方」や、北海道内の他の地域では、概ね5月中に水田に水を入れて田植えを始める。水が入ったばかりのような水田は美しいと思う。

↓そういう様子を見掛けた。暫し佇んで様子を眺めた。
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↑水を入れたばかりのような水田の水面に天が映り込む。

この様子を見て小説の『続 泥流地帯』を思い出した。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は水田の復興に懸命だった。やがて「復興後、初めての収穫」が得られるようになって行く。水田を見掛けたのは、この『続 泥流地帯』のモデルになった「三重団体」と呼び習わされた農地という場所なのだ。

非常に美しいと思ったが、小説を読んでいた関係で心動かされたという面も在った。

十勝岳を遠くに望む…:上富良野の風景…(2024.05.12)

『泥流地帯』『続 泥流地帯』という、実質的に「上下巻」のようになっている小説が在る。

上富良野の少し北に在る美瑛を訪ねたことが何度も在る。美瑛で人気の「青い池」だが、アレは十勝岳の噴火災害を想定した防災工事の結果として出来た池で、見た目が面白いので評判になったという場所だ。その「十勝岳の噴火災害を想定した防災工事」という中、記録されている中で最悪の被害が発生した「大正泥流」こと1926(大正15)年5月の災害という時期に題材を求めた物語として『泥流地帯』、が知られているということが話題になる。

『泥流地帯』『続 泥流地帯』について美瑛で聞いた話しが切っ掛けで知ったのだが、物語の主な舞台となるのは上富良野である。作中には主人公の兄弟の隣人として、実在の村長をモデルにした劇中人物が登場する。未だ幼い村長の娘達が主人公達に懐き、そえが契機で隣人としての交流が始まる。小学校の教員として勤める弟に対し、「あんちゃん」こと兄は災害で手放された水田の復興に必死に取組み、村の農地の復興に熱心な村長と共鳴するのであった。

この劇中人物のモデルとなった村長が建て、泥流災害の際に多少の被害を被りながらも残ったという貴重な家が、移築されて資料館になっている。上富良野に限らず、北海道内では方々の人達がグループになって入植し、開拓をして農業に従事というような例は多く在る。劇中人物のモデルとなった村長の吉田貞次郎自身も、両親の入植に伴って上富良野にやって来て育ったという人である。「三重団体」と呼び習わされ、三重県出身者のグループが開拓した地域が在る。入植者達の開拓の後、泥流災害からの復興は「第2次開拓」というような事柄な訳で、そういう経過を紹介している資料館が、「三重団体」が活動していた辺りの一隅に在る。

その資料館だが、上富良野駅から3km弱の場所だ。旭川・富良野間の道路に出て道なりに進むと在ると、地図を見て知った。朝、上富良野駅に着いてからゆっくり歩いて資料館に向かい、見学をしてから上富良野駅側へ引揚げ、更に歩き廻って昼頃の列車で旭川へ引揚げると好いと思い付いた訳だ。

前置きが非常に長くなってしまった。

↓駅から資料館を目指した際に足を停めて眺めた様子だ。
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↑遠くの山並みの中で、薄く噴煙が見えるのが十勝岳であると見受けられる。

泥流災害から懸命に復興し、上富良野は「豊かな農業地域」というような様相になっている。遠くに十勝岳を望む中に種々の畑等が広がっているという様が「上富良野らしい」と思った。

↓多少、雲が多い。が、雲の感じも面白いと思った。
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旭川・富良野間の道路の端、歩道を進んでいたが、目指す資料館が間違いなく在るのか不安も覚えた。「770m」と案内看板で出ていて大いに安堵し、歩調が多少速まった。

↓資料館を訪ねた後、また上富良野駅側へ歩いた。再び「上富良野らしい」と思った様を眺めた。
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↓薄く噴煙が上がる山を望みながら、人々の営みが営々と続くのだ。
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正直、後から「足取りがやや重くなる…」という程度に歩いたのだが、御蔭で上富良野が忘れ難い場所になったように思う。馴染の薄い地域は、歩き廻ると発見も多いと思う。

上富良野駅到着…(2024.05.12)

↓静かな駅ながら、富良野方面へ出ようとする高校生位と見受けられる若者達が何人か乗車した。彼らが乗車しようと待っている中で下車した。そして彼らが乗り込んで車輛の扉が閉まった。
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↓駅の出口は跨線橋を渡った先だ。跨線橋から、乗って来たH100形が富良野方面へ去って行く様を見送った。
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↓最近の旭川・富良野間では、このH100形が主流、と言うより「専ら」というようになっていると思う。
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↓駅舎側に駅名標が掲げられている。
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↑北海道内の駅では御馴染のビール会社の広告が在るが、上富良野はビールの材料の一つであるホップを栽培していると聞く。

↓掲出された時刻表だ。やや運行間隔が広い感じだ。
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↓運賃表が掲出されている。
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↓平日の日中は窓口が開いていて係員が居るが、日曜日や祝日は居ない。そこでこの券売機が活躍である。
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↓古くは急行列車も停車する駅であったという。現在では「半ば無人駅」という様子である。他方、駅の真前にタクシーは半ば常駐していた。
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富良野や、(現在は廃線で行けないが…)新得との間を往来した際、この上富良野駅の辺りは間違いなく通過している。が、駅で列車を下りた経過は無い。「訪ねてみよう」とでも思えば、何かの序でというのでもなく、随意に動くことの出来る時に一寸計画して寄ってみる他に訪ねる機会も術も無いような場所だと思う。

今般、「想い」も在って、上富良野を訪ねてみたのだった。

朝の旭川駅を発つ…(2024.05.12)

↓日曜日の午前6時台である。旭川駅の辺りは殊更に静かな感じだ。
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↓切符を求めて改札口を潜る。
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↓ホームへ続く通路に続く辺りが、何となく豪華な感じで気に入っている。
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↓富良野行の列車に乗る。
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↓「6:41 FURANO」を待つことになる。
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↓エスカレータでホームに上る。
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↓乗務員も待機している中、列車が登場した。
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↓停車に向けて減速する。
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↓乗務員が準備をして、間もなく乗車可能になる。
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↓「一番乗り」だったので車輛の中の様子を写真に収めた。H100形は1列座席と2列座席を組合わせ、更にロングシートが在るという内装だ。そう言えばキハ150もそういうような感じだったと思い出した。
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今般は、この列車で上富良野駅を目指す。

建物…:<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>(2024.05.11)

塩狩駅の直ぐ傍に看板が在る。
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↓小高くなった辺りに建物が在る。
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↓こういう建物で、<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>ということになる。
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三浦綾子は3冊組の『道ありき』という自伝的作品を綴っている。その第2部に、眼前の建物に纏わる事柄が詳しく綴られていた。

『道ありき』の第1部、第2部は、「主人公の“綾子”が、教員の職を辞した後、考えていた結婚を病気の故に諦めるが、長い療養生活の中で伴侶に巡り合い、結婚する。そして小説家になって行く」という“小説”という風で非常に興味深い。

結婚後、最初に住んで居た借家を出るということになった際、住まいを見出そうとするのだが、結局「思い切って建てよう」ということになった。それがこの建物で、三浦綾子はここで「三浦商店」という雑貨店を営み、傍らで創作活動もしていた。懸賞小説で、三浦綾子が作家デビューする契機となった『氷点』は、この家で綴られていた。懸賞小説の「12月31日消印有効」という当日、深夜2時頃に完成し、パートナーの三浦光世が街の郵便局の本局へ足を運んで送ったらしい。それが「作家三浦綾子」の登場への道を拓いたことになる。

↓聖書の言葉や教会の催事案内を貼り出したという小さな掲示板も再現されている。味わいの在る建物だと思った。
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1970年代に夫妻は別な家に移った。年月を経て、この建物が解体されることになった時、想い出多い家が完全に姿を消すことを夫妻は酷く惜しんでいたのだという。そこで有志が「あの『氷点』が綴られた家」ということで、部材が綺麗に残るように手作業で解体して部材を保管したのだという。

この家では、非常によく知られた作品である『塩狩峠』も綴られた。それを踏まえ、この塩狩に家を再建した。新築部分の展示交流コーナーと合わせて<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>ということになり、1999年4月にオープンした。

オープンの際には三浦夫妻も訪れている。三浦綾子は、当時は病身であって、その年の10月に他界してしまった。オープンの際の写真が館内に在った。想い出多い家で嬉しそうな三浦綾子の様子、傍らで見守る三浦光世の様子が凄く記憶に残る感じだ。

↓稚内から列車でここを訪れるのであれば、早朝の列車から乗り継いで塩狩に至り、昼の列車で旭川に出るというのが、開館時間の中で中を見学する最も現実的な方法だと思った。
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色々な作品に親しんだ作家に所縁の場所を訪ねてみるのは興味深いものだ。

塩狩駅到着…(2024.05.11)

↓静かな駅で下車した。
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↓早朝の稚内駅を発って名寄駅に到ると、このキハ54ディーゼルカーは名寄駅の3番線で待機する。やがて、旭川駅へ向かう快速列車となる。
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↑早朝からずっと御世話になった車輛を眺めた。

↓塩狩駅に到った。
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↑「天塩国」と「石狩国」の境界辺りということで「塩狩峠」と呼ばれる辺り、峠を上った辺りに在る駅だ。駅名は「塩狩峠」に因むモノなのであろう。信号所であった場所を駅にしているそうだ。

↓旭川方面へ進むキハ54ディーゼルカーを見送った。
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↓振り向けば駅舎が在る。無人駅だ。
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↓基本的に列車の乗降は駅舎前の1番ホームだが、一部の列車が2番ホームになる旨の案内が出ている。この場所で列車の行き違いが在るためだ。
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何度となく稚内・旭川間を列車で移動しており、その都度にこの塩狩駅の辺りは通り過ぎている。初めてこの駅で下車してみた。

旭川駅…(2024.05.11)

旭川に着いて、街を歩き廻った。旭川銀座商店街に至り、そこから9条、8条に至って西側に進み、更に駅の辺り迄、随分と歩いた。

↓いい加減に足取りが重くなった辺りで旭川駅に到った。安堵感のようなモノを覚える。
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駅のロッカーに預けた荷物を引き取り、宿へ向かった。充実した1日だった。

旭川駅到着…(2024.05.11)

↓旭川駅に到着した。
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↑名寄駅で停車している様子を見たことも在ったH100形に塩狩駅から乗車した。車内は少し混み合っていた。名寄・旭川間の移動手段として、列車は存外に人気が高いと見受けられる。このH100形で、名寄側から旭川に着いたのは初めてであるような気もする。

↓旭川駅の雰囲気に、このH100形はよく似合うような気もする。暫し眺めていた。
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↓直ぐ脇に、網走へ向かう特急列車が待機中だった。キハ283系ディーゼルカーだ。
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↓車輛に網走をイメージした画が入っていた。
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今般は、旭川を拠点にしながらゆっくりと過ごすことにした。

<第一市場>:旭川銀座商店街(2024.05.11)

↓古色蒼然という感じで少し驚き、注目した。
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↑旭川銀座商店街の一隅、車輛が行き交う道路の辺りに覗いた建物の組み合わさったモノである。

↓商店街側が正面入口のようだ。テント生地と見受けられる軒の「年季の入り方」が凄い。
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↑手前の御店は営業中のようだ。敢えて中には入らなかったが、旭川の街では古くから商店等が集まっていたという地区に重ねられた「時間」を感じた。

街を歩き廻り、こういう場所に出くわすのも少し面白い。

<銀座サウナ>:旭川銀座商店街(2024.05.11)

↓旭川銀座商店街で少し不思議な看板の御店を眼に留めた。「サウナ?」と思い、入ってみた。
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嘗て商店、または店舗兼住宅であった建物を改装したサウナだった。手前側は居酒屋、食堂的な御店だが、偶々御都合で休んでいたが、奥はサウナである。

湯船は無い、本当にサウナだ。「1時間コース」で、タオルをレンタルして利用してみた。好い場所を見付けた。

ランチ…(兼朝食):<ramo けいなのおばんざい>:旭川銀座商店街(2024.05.11)

旭川駅に到着したのは12時35分だった。5時21分に稚内駅を発つ列車に乗り、名寄駅で乗換列車を待つ間―稚内・名寄間で乗っていた車輛が待機していて、旭川行の列車になる…―に「キマロキ」を見学し、乗り込んだ列車で塩狩駅に到り、塩狩駅傍の<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>を見学し、そこで列車に乗って旭川駅に到ることとなったのだ。

その旭川駅から東側の方向へ歩を進め、旭川銀座商店街の辺りに至った時には午後1時15分位だった。何か食事を摂りたかった。飲物を飲んでいるばかりで、朝早くから食事は摂っていなかった。

↓何か感じが好さそうな御店に至った。
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↓旭川銀座商店街の辺りで、少し古い建物を利用している御店である。
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↓今年に入ってオープンしたという御店だった。
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↓メニューを拝見した。何か「街の図書館の児童書コーナーに在る絵本」という雰囲気のメニューで愉しい。後で聴けば、店主氏が画を描いて作ったそうだ。素敵だと思った。
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↓「定食編」ということで三択になっている。これから択び、食後に珈琲を頂くこととした。
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↓そして登場した。
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↑米飯は「大中小」を択ぶようになっている。「小」とした。

↓「つゆだく生姜焼き」の定食である。豚肉を焼いているのだが、タレが少し多目になっている。千切りキャベツと合わせて豚肉を摘まむと凄く美味い。
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↓美味かった料理の余韻に浸りながら、これもまた美味しい珈琲を頂いた。
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↓店名はスペイン語である。「ramo」(ラモ)は「枝」や「花束」という意味なのだそうだ。
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↑「ramo」(ラモ)では「何の御店?」という感じにもなるので、食事を摂る御店ということで“副題”のように「けいなのおばんざい」というようにしたというが、方々で寧ろ「けいなのおばんざい」と紹介されているようだ。

↓名刺代わりに配っていたようだが、シールを訪問の記念に頂いた。
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↑「HAVE A NICE DAY」と在るが、御蔭様で「好き日の愉しいランチ(兼朝食)」となった。

↓記憶に留めたい御店となった。
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