結局、土曜日、日曜日に続いて月曜日も歩き廻った。累計で存外な距離である。
前日の午後から夜は風が強い様子だった。12階に在る宿の居室では、夜間に強風の音が少し聞こえていた。
前日は曇天で、天候は下り坂な傾向であるようだった。そういう中で深く眠った。典型的な「早寝早起き」である。早朝、雲が覆寝な戸外を窓から伺ったが、道路面が湿っている様子だった。それはそれとして、朝から動き回ることとした。
早朝、旭川駅から岩見沢駅へ列車で移動した。岩見沢駅では少し待ち時間も在った。そういう中で更に列車に乗って栗山駅へ向かった。
栗山では小林酒造を訪ねてみたかった。雨に濡れながら、道を間違えた場面も在ったが、無事に着いた。
やがて栗山の市街で喫茶店に入り、昼食を摂り、居合わせた方や御店の方と言葉を交わし、少し寛いだ。
栗山から岩見沢へ列車に乗ろうとしたが、その前に路線バスが現れたので乗ってみた。あのバスは寧ろ、岩見沢市内で賑わう感じのバスだった。列車の方が安価で速い。バスも、必ずしも本数は多くない。
岩見沢からは列車で旭川に引揚げた。旭川駅に着いて、その足で食事を摂ろうと街を歩いた。馴染んだ御店が営業していたので立寄った。ゆったりと食事を愉しんで宿に引揚げた。
そして「何時でも御休み頂いて構いません」という態勢で居る。今日の見聞等は、後で改めて綴ることとしたい。想った以上に充実した期間を過ごしているように思う。
栗山跨道橋…(2024.05.13)
栗山駅到着…(2024.05.13)
夕べに…(2024.05.10)
「三浦商店」の面影…:<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>(2024.05.11)
小説『塩狩峠』の「クライマックス」の御当地である塩狩の地に<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>が在る。作者の三浦綾子が御夫妻で住んで居た家を移築した部分と新築部分からなる資料館である。
↓建物にこういう往年風な看板が掲出されている。
↓こういうモノも在る。
嘗ては煙草や塩は「専売制」で認可を受けた小売店で扱われることになっていた。実際にこういう看板が掲出されていたか否かは判らないが、三浦綾子はこの建物の家で「三浦商店」という雑貨店を営んでいた。日中は雑貨店を営み、夜には創作活動に勤しむというような暮らしだったようだ。
↓こういう、かなり懐かしい公衆電話も「展示品」になっている。嘗ては方々に、それこそ商店の片隅等にこんな公衆電話が設置されていた。
1999年にこの<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>が開館した時、当時は病身ながらも御存命であった三浦綾子が伴侶の三浦光世と共にここを訪れている。
↓これが三浦綾子が営んでいた「三浦商店」の雰囲気を再現した展示である。
↑この場所に三浦綾子が入っている写真が館内の展示に在った。「これ!懐かしい…」とでも言っているような感じで、嬉しそうに想い出多い旧宅の様子を眺める御本人の写真が館内にも展示されていた。
↓一寸した文具関係も扱っていたようだ。
<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>では、この「三浦商店」の部分迄は写真を撮って構わないようになっていたので撮った。自伝的作品である『道ありき』第2部に在るような物語の舞台となった場所だ。深い感慨と共に見学した。
こういう「作家に所縁の場所を活かした展示施設」というのも好いものだ。
↓建物にこういう往年風な看板が掲出されている。
↓こういうモノも在る。
嘗ては煙草や塩は「専売制」で認可を受けた小売店で扱われることになっていた。実際にこういう看板が掲出されていたか否かは判らないが、三浦綾子はこの建物の家で「三浦商店」という雑貨店を営んでいた。日中は雑貨店を営み、夜には創作活動に勤しむというような暮らしだったようだ。
↓こういう、かなり懐かしい公衆電話も「展示品」になっている。嘗ては方々に、それこそ商店の片隅等にこんな公衆電話が設置されていた。
1999年にこの<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>が開館した時、当時は病身ながらも御存命であった三浦綾子が伴侶の三浦光世と共にここを訪れている。
↓これが三浦綾子が営んでいた「三浦商店」の雰囲気を再現した展示である。
↑この場所に三浦綾子が入っている写真が館内の展示に在った。「これ!懐かしい…」とでも言っているような感じで、嬉しそうに想い出多い旧宅の様子を眺める御本人の写真が館内にも展示されていた。
↓一寸した文具関係も扱っていたようだ。
<塩狩峠記念館 三浦綾子旧宅>では、この「三浦商店」の部分迄は写真を撮って構わないようになっていたので撮った。自伝的作品である『道ありき』第2部に在るような物語の舞台となった場所だ。深い感慨と共に見学した。
こういう「作家に所縁の場所を活かした展示施設」というのも好いものだ。
キハ40:急行<花たび そうや>:旭川駅…(2024.05.12)
JR北海道は旭川・稚内間で<花たび そうや>というイベント列車を運行している。土曜日に旭川から稚内へ向かい、日曜日に稚内から旭川に戻るというように運行されている。
今般はその列車が、キハ54ディーゼルカーの2輛連結の前後にキハ40ディーゼルカーを加えた4輛編成で運行されると聞いていた。前日に稚内入りしたその編成が旭川に引揚げて来る。駅に眺めに行くことも出来る様子だったので、足を運んで入場券を求めてホームに入り込んでみた。
↓「7番ホームに列車が参ります」ということになり、走行音が聞こえて列車が姿を見せ始めた。
↓次第に減速する。
↓停車した。
7番ホームは、少し後に名寄行の列車が出るので、それを待つ人たちが見受けられたが、自身を含む見物人も少し集まっていたような感じだった。
↓キハ40ディーゼルカーの独特な存在感が好い。最近は数が減っている車輛だ。
↓このキハ40ディーゼルカーは、嘗て宗谷線の急行列車として使用された車輛の外観を再現している。
↑宗谷線ではキハ261系ディーゼルカーによる特急列車が登場する以前、キハ40を改造した「キハ400」というディーゼルカーを用いた急行列車が運行されていた。その「キハ400」の外観をした車輛が先頭になって旭川駅に入って来ると聞き、観たかったのだ。丸いヘッドマークまで掲出され、嘗ての急行列車の雰囲気が強く醸し出されている。酷く懐かしいような気分になる外観だ。
↓大勢の乗客が下車して賑わった。やがて扉が閉まり、旭川駅のやや北側に在る車庫へ引揚げる。
↓ディーゼルカーは発進して速度を上げようとする時等に排気煙を上げる。
↓時にはこういうような様子を眺めるのも愉しいものだ。
<花たび そうや>は、この土日が今季最初の運行であった。何回か運行されるので、稚内で眺める機会も設けられるかもしれない。
今般はその列車が、キハ54ディーゼルカーの2輛連結の前後にキハ40ディーゼルカーを加えた4輛編成で運行されると聞いていた。前日に稚内入りしたその編成が旭川に引揚げて来る。駅に眺めに行くことも出来る様子だったので、足を運んで入場券を求めてホームに入り込んでみた。
↓「7番ホームに列車が参ります」ということになり、走行音が聞こえて列車が姿を見せ始めた。
↓次第に減速する。
↓停車した。
7番ホームは、少し後に名寄行の列車が出るので、それを待つ人たちが見受けられたが、自身を含む見物人も少し集まっていたような感じだった。
↓キハ40ディーゼルカーの独特な存在感が好い。最近は数が減っている車輛だ。
↓このキハ40ディーゼルカーは、嘗て宗谷線の急行列車として使用された車輛の外観を再現している。
↑宗谷線ではキハ261系ディーゼルカーによる特急列車が登場する以前、キハ40を改造した「キハ400」というディーゼルカーを用いた急行列車が運行されていた。その「キハ400」の外観をした車輛が先頭になって旭川駅に入って来ると聞き、観たかったのだ。丸いヘッドマークまで掲出され、嘗ての急行列車の雰囲気が強く醸し出されている。酷く懐かしいような気分になる外観だ。
↓大勢の乗客が下車して賑わった。やがて扉が閉まり、旭川駅のやや北側に在る車庫へ引揚げる。
↓ディーゼルカーは発進して速度を上げようとする時等に排気煙を上げる。
↓時にはこういうような様子を眺めるのも愉しいものだ。
<花たび そうや>は、この土日が今季最初の運行であった。何回か運行されるので、稚内で眺める機会も設けられるかもしれない。