<かみふらの開拓記念館>または<上富良野町開拓記念館>:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)

↓<上富良野町開拓歴史広場>に家が建っている。少し古い建物だ。
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↓これが<上富良野町開拓記念館>だ。
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↑施設を紹介する情報の中には<かみふらの開拓記念館>という標記も見受けられる。故にこの記事の件名は「<かみふらの開拓記念館>または<上富良野町開拓記念館>」としてみた。些事かもしれないが。

この建物は、小説の『続 泥流地帯』に「主人公兄弟の隣人として登場する村長」のモデルとされる人物、「大正泥流」の当時に上富良野の村長を務めていた吉田貞次郎の家であった建物だという。

建物は「大正泥流」当時に少し傷んだものの残ったことから使用され続けたという。やがてこの<上富良野町開拓歴史広場>を整備した際に移築し、「開拓記念館」としたのだ。

↓大正時代の建築だ。それだけでもなかなかに貴重だと思うが、「大正泥流」の記憶を伝えるという価値も在る建物である。
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↓観る角度を変える毎に独特な雰囲気に見えて興味深かった。
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実は…この「開拓記念館」が開く前に辺りに到着していたので、戸外で建物をゆっくりと眺めていたのだった。

↓やがて開いたので見学させて頂いた。
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展示はかなり興味深かった。「三重団体」が辺りに入って開拓を始めるようなことと、吉田貞次郎の事績や所縁の品、「大正泥流」の記録写真等が在った。また吉田貞次郎の伝記的な事柄を紹介するビデオを興味深く拝見した。

「大正泥流」の記録写真は、本当に言葉を失うような様子だ。災害後に「村の放棄も已む無し」という論調が強かったというのも頷かざるを得ない。が、吉田貞次郎村長は、「父母と共に拓いたこの地を諦めたくはない!」と復興を推進しようとし、それを何とか果たして行くのである。

上富良野駅に着き、そこから沿道の景色を眺めながら存外に長く歩いた。が、そうやって訪ねた価値は在った。
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ここを見学後、辿った道を市街側へ引揚げ、更に上富良野で少し過ごした。

地図…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)

上富良野では1897(明治30)年に開拓に着手されたことを、現在に続く自治体の礎が築かれた出来事と捉えており、1997(平成9)年には「100年」ということで<上富良野町開拓歴史広場>を整備している。

この<上富良野町開拓歴史広場>は地域の歴史等を伝えるような場、住民や来訪者の憩いの場というような様子になっている。そして「三重団体」というように呼び習わされたという、三重県からの入植者達が拓いて農地を起こしたとされる地区の一隅にこの広場は設けられている。

↓広場にこういうモノが在った。
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↑地図である。少し立体的に見える描写の立派な図だと思う。

↓暫しこの地図を眺めた。
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↑十勝岳の山頂側から下って、川などになっている先に上富良野が在り、図の真中辺りに在る上富良野駅から見て、図の左側の辺りが<上富良野町開拓歴史広場>ということになる。

1926(大正15)年の十勝岳噴火の際に生じた「大正泥流」は、十勝岳を少し遠くに望む麓の開けた辺りに襲い掛かったということになる。地図が掲出されている辺りの向こうに、十勝岳が薄い噴煙を上げているのも見えていた。

「大正泥流」は噴火の際の熱で、山頂周辺に未だ多く残っていた雪が一気に融け、大量の水が土や岩と共に流れ、木々を薙ぎ倒して、漫然と木が押し流されるのでもなく「縦に回転」という凄まじい勢いで押出した訳だ。

<上富良野町開拓歴史広場>が在る辺りも含め、明治30年代から大正年間の30年間程で拓かれた農地などは「大正泥流」で悉く損なわれてしまった。その他の財物も相当な被害を受け、犠牲者も多く生じている。その災害後の復興の取組は、言ってみれば「2回目の開拓」というようなものであったのだという。

こうした歴史を伝えようとする場を訪ねることが出来たのは非常に善かったと思う。

弁天神社と桜と…:旭川銀座商店街(2024.05.11)

↓旭川銀座商店街に入り込んだ辺りだ。
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↑何か「鳥居の前に橋」というような、何処かの神社の境内を縮小したかのような設えで、背後の桜も何となく好い。

↓「弁天神社」と号している。商売繁盛の御利益ということで弁天様を祀っているのであろう。
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↑無事に旭川に着いたことに感謝の意を表すべく参拝した。

↓辺りの桜が可憐で美しかった。
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稚内を発った早朝には10℃に届かない気温であったが、昼過ぎの旭川では20℃を少し超えていた。何やら汗ばんでいたが、そういう中、眩しい光を受けて街角の桜を愛でたのは嬉しかった。

「スケートボード ローラーブレード等の使用を禁止します」…:旭川銀座商店街(2024.05.11)

旭川駅前で東西に延びるのは宮下通だ。少し北に寄ると1条通である。

これらの通に出て、旭川駅を背に右側へ進むと東へ向かうことになり、東西に延びる通と交わる南北の通である「丁目」の数字が大きくなって行く。

↓14丁目というような辺りに至ると、こんな様子に出くわす。
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↑祀られているような、少し立派な木が在って、傷んでしまった状況であっても大切にされているようだ。その木の真前に「スケートボード ローラーブレード等の使用を禁止します」という看板だ。

正直、個人的な感想として「野暮な看板…」と思った。が、ここは「旭川銀座商店街」として、通の一部が車輌を原則的に入れないようにしている場所なのだ。こういう場所に関しては、スケートボードやローラーブレード等を使ってみたくなるというのも在るかもしれないが、人が普通に通行する場所である以上、使えば少し危ない場合も生じる。そこで「禁止します」ということだ。

立寄った時は、通行人は然程多くもなかった。看板の趣旨は結構だが、この「傷んでしまった状況であっても大切にされている木」を眺め易いようにして頂きたいものだと個人的には思った。

第一副港辺りの眺め…:稚内港(2024.05.15)

気温が上がった割に風が冷たいと思った朝、少し歩き廻って、稚内港の繋留濠である第一副港の辺りに至った。
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↓繋留中の船は少な目であった。
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↓繋留中の船の上には、大概は鳥が翼を休める様子が見受けられる。
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↓対岸の市場が活動中で、そういう辺りに多くの海鳥が見受けられた。
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↓船上に海鳥が並んでいる感じがクールだと思った。
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↓タグボートが繋留されている辺りを通り過ぎる。
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↓歩いた辺りを半ば振り返りながら、繋留濠の最奥部の側へ進む。
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↓繋留濠の最奥部にタグボートが並んで繋留されていた。美しい感じだ。
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↓何かの業務、作業に従事するのか、またはメンテナンスの関係で稚内港にやって来ている船と見受けられる。
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色々な様子を眺めながら、この第一副港辺りを歩き廻るのも好い。

チューリップ…:上富良野の風景…(2024.05.12)

<上富良野町開拓歴史広場>の辺りを少し歩き廻っていた。

↓微風に揺らぐチューリップが好い状態だったので見入った。
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↑思うと「好い感じだ…」とチューリップを眺めたのは、今季初めてかもしれない。

小説の『続 泥流地帯』で描かれた、「大正泥流」の被害地域での農業復興に取組んでいた様子を思い出しながら眺めた水田の近くで見掛けたのだった。

「大正泥流」の埋木…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)

↓広場にこういうように木が置かれていた。
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↑少なくともベンチではない。座面が整えられているのでもない。そして製材が施された材木でもないことも見れば判る。

↓反対側の端である。両方とも少し激しく傷んでいる。人為的に切断したのではなく「折られた」という様子である。
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↑これが1926(大正15)年の「大正泥流」で押し流された木なのである。2018年に住宅工事の現場で埋まっていたのが発見されたそうだ。

「両端が傷んでいる」というのは、激しい泥流で「叩き折られた」ようになった木の幹が、単純に押し流されるのでもなく「縦に回転」というすさまじい勢いで迫ったので、色々と硬いモノに当る等で両端が摺られながら傷んだと推定出来る。

屋外に置かれているため、この埋木は少し傷んだ感も否めないが、「大正泥流」の恐るべき破壊力を想わせるモノである。

尚、この埋木に関しては、別な場所に在る<郷土館>で屋内のケースに入った状態で展示されているが、こちらは「工事現場で掘出された現物のまま」に近いと見受けられた。

こういうモノはなかなかに貴重で、こうやって公開しているのも意義在ることだと思う。

草分神社…:<上富良野町開拓歴史広場>(2024.05.12)

精確には<上富良野町開拓歴史広場>の範囲を少しだけ外れるのかもしれない。やや離れた辺りからも小説『泥流地帯』の文学碑が判るのだが、その直ぐ隣りのような辺りである。

↓そこに鳥居が在る。
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↓社殿に近付いてみた。
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↑複雑な形状の雲が蠢くような天を背景に、影絵のようになっている社殿が美しいと思った。

↓草分神社という社だ。
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北海道内では方々の色々な人達が各地に入植し、村を興そうとする中で、安寧を祈るべく祠や社を起こし、それが地域の神社となって現在に迄受継がれている例が多々在る。上富良野もそういうような例に洩れない。

今日<上富良野町開拓歴史広場>となっている辺りを含む地域では、1897(明治30)年頃から入植が始まったというのだが、その翌年となる1898(明治31)年には神社の礎となる場が設けられたという。

村を拓くべくやって来た人達は、「当地に着いた頃、楡木の辺りで野宿をする」という経験をしており、その木を“御守り”としながら天照大神御札に御参りをしたのだという。やがて1902(明治35)年には正式に伊勢皇大神宮の御分霊大麻を受け神祀を建立した。そして村の歩みが始まったという場所の名を冠して「草分神社」と号したのだという。

その後は「大正泥流」で損なわれ、再建されというような経過で、現在に繋がっているようである。

この地を拓き、様々な苦難も潜り抜けたという経過を知るべく、感じるべく上富良野を訪れて観たが、そういう好い経験が出来ているということに感謝の意を表しようと、草分神社に参拝した。

朝に…(2024.05.15)

↓身体に当たる風が多少冷たい中で歩き、稚内駅の辺りに至った。
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↓陽射しはやや眩しい。
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↓「18℃」にやや驚いた。
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↓長袖シャツの上に、風除けとして薄い上着を引っ掛けて戸外に出た。少し長く歩くと、身体が温まって軽く汗ばむ。が、気温の割に温かい感じが乏しいように思える。
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移ろう季節という中、日々の営みが在る訳だ。

建物…(2024.05.15)

5月3日に足場が組まれ、5月4日に足場にネットが張られ、何やら「囚われた?」という様相の建物が在る。塗装工事をするというだけのことではあるのだが。

↓2週間近くが経ったが、未だこういうような様子である。
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存外に手間が要るものであるようだ。

車窓…:豊富・下沼間(2024.05.11)

稚内駅から普通列車に乗込んで移動した。特急列車も停車する豊富駅を過ぎると「漸く隣りの街か…」という程度に何時も思う。稚内・豊富間は鉄道で43.5㎞であるそうだ。

↓豊富駅を過ぎて少し経った頃、広大な牧草地が広がる辺りで提げていたカメラを素早く使った。
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↑牧草地の彼方、幻影のように、雪が未だ少し多く残っている利尻富士が霞んだ。

1721mの高さであるという利尻富士である。少し広い範囲に「見える場所」は在る。車窓に見える場所も何箇所か在る。写真に撮るのはやや撮り悪いような気もするが。それはそれとして、窓から利尻富士を眺めるのは愉しい。

車窓…:南稚内・抜海間(2024.05.11)

稚内駅から名寄駅へ向かう普通列車に乗車した。雲が多い早朝だった。

南稚内駅を過ぎ、抜海駅へ向かう途中、列車の窓から日本海が視える箇所が在る。素晴らしい景色が望める場合も在るのだが「好条件」でなければならない。

↓雲が多いので、漫然と海が視えるだけだと思っていたが…雲間に未だ雪がやや多く残る利尻富士が、幻影のように霞んでいた。
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気に入った車窓の景色も、時季や天候で見え方が違う。そういう景色に出逢い、記憶に留め、通る都度に愉しむというのが好いと思う。と言いながら、列車の中で居眠りに及ぶ場合も多々在るが。

朝の稚内駅を発つ…(2024.05.11)

↓早朝の稚内駅は「無人駅」のような要領で利用することになる。
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↓改札口を随意に潜ってホームで佇んで居れば、少し向こうの踏切の警報音が鳴り、列車が近付いて来る。
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↓普段は車輌がホームに停まる寸前、停まった頃から改札が始まってホームに出る。稚内駅でこうやって車輌が近付く様を眺めるのは、「早朝の普通列車ならでは」という気がしないでもない。
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↓眼に馴染んだキハ54ディーゼルカーである。
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↓乗務員が準備をして間もなく扉が開く。
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↓車輌側面に掲出する「宗谷線」のボードが好い。何種類かの画が在るようだ。これは名寄の「キマロキ」の画を入れている。
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↓進行方向に椅子の背が見えている。座席が回転しない、完全に固定の仕様という車輌だ。
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↓旧い優等列車用車輌の椅子を据え付けたと聞く。
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↑キハ54ディーゼルカーは、各車毎に内装が少し違う。

↓「JNR」(=国鉄)のマークをそのまま残した扇風機が天井に据え付けられている。
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↓荷物は一寸棚に上げる。
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↓テーブルが備わった感じの席に陣取った。駅の脇の自販機で求めた飲物を出す。何気なくバッグに容れていた本も出しておいた。
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↓列車を乗り継いで、旭川へ259㎞の道程を往く。
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自身にとっては「始発駅」である稚内駅をこうして出発した訳だ。

自販機…:稚内駅(2024.05.11)

稚内駅の辺りは1日を通して「静か」という時間帯が寧ろ多いような気もするのだが、早朝は殊更に静かであるように思う。

↓朝5時台の普通列車に利用する場合、少しゆとりを持って稚内駅に足を運び、この辺りに寄る。
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駅ビルの反対側に入っている御店は朝6時に開く。その以前であれば、ここで車内用の飲物を求めておくのが、自身の中では恒例になっている。

今般もその恒例に従ったのだった。