昼に…:<ツモロー>:栗山(2024.05.13)

小林酒造で過ごし、少しゆっくりと昼食でも摂って寛ぎたいという気分になった。旭川駅を発ったのが早めで、朝食は摂っていなかった。昼食兼朝食ということになる。

↓駅前通で見掛けた御店だ。
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↑長く営業している街の喫茶店という風情が色濃いと観た。

↓画の左側、カウンターの席に迎えて頂いた。未だ空いていたので、見える様子を写真に収めた。少し経つと、御近所の常連と見受けられる人達等が少し集まって、入替ってもいた。
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↓カツカレーを頂いた。米飯は少し少な目で御願いした。サクッとしたカツ、程好くスパイスが利いて辛過ぎないルーで、何か「古き佳きカツカレー」という美味さだった。
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↓食後に珈琲を頂いた。好い感じの、やや濃い目に感じられる、珈琲の苦味の奥に仄かな酸味というような味わいだった。
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御店の方や集まった方の話題には、前日の北海道日本ハムファイターズの試合やリーグ戦の行方というのも多かった。そしてかの栗山監督がWBCの日本チームの指揮を執って優勝した際の新聞一面を、フレームに入れて奥側の壁に飾っていた。栗山監督と御縁が出来たことで、何か地元の皆さんが野球観戦を凄く愉しむようになっている雰囲気が感じられた。

そして、居合わせた方や御店の方と少し雑談に及び、何かゆっくりとした。出先で、こういう「街の憩いの場」というような場所に御邪魔するのも好い感じかもしれない。

駅前通の案内標識…:栗山(2024.05.13)

栗山駅の正面から延びている道路を「駅前通」と呼ぶようだ。その通を栗山駅の側へ進んでいた。

↓こういう案内標識を眼に留めた。
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↑直進すると栗山駅で、既に駅も見えていて70m程度先だという。右は札幌へ通じる道路に繋がる。左の「角田」とは何だろう?

「角田」というのは、栗山町の中に在る地区のことだ。栗山町は、嘗ては「角田村」と呼ばれた。

仙台の伊達家は62万石と、江戸時代には屈指の大藩だった。こういう大藩には1万石程度(またはそれ以上)という大名並みの知行地を与えられていた人達も見受けられた。そして、そういう人達も大名家のように家臣団を抱えていて、それは大名家のように「御家中」と呼ばれていた。

仙台の伊達家の中に、現在の宮城県角田市に相当する辺りに石川家の知行地が在った。「角田石川家御家中」というモノが江戸時代を通じて在ったことになる。

この「角田石川家御家中」に泉麟太郎が在って、1888(明治21)年に「夕張開墾起業組合」を設立し、北海道へ入植した。その入植した地域を、故郷に因んで「角田」と命名したのだ。やがて辺りは「角田村」ということになって行った。

1900(明治33)年に「角田村戸長役場」が設けられ、独立した自治体としての礎が築かれた。やがて市町村制度の変遷は在ったが、「角田村」ということで経過する。

この他方、1892(明治25)年に鉄道(室蘭線)が開通した翌年に栗山駅が開設され、駅の近くに市街が発展し始めた。

そして人口も増えて町制を施行するという話しになった。そうなった時、入植が始まった頃の経過を踏まえた「角田」とする考え方と、町制施行時点で人口等もより多い「栗山」とする考え方がぶつかり合ってしまった。協議が難航し、1949(昭和24)年に至って角田村が改名され、栗山町が発足である。

そんな経過も少し興味深い。が、この案内標識に関して「眼前の駅、少し離れた大きな街、同じ町の中の地区名」という3者が示されていて、少し不思議な気もしたのだった。

「お手洗」…:小林酒造:栗山(2024.05.13)

↓何気なく見て、「何か凄く大きい?!」と少し驚いた。
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↓団体のバスにも対応可能な大き目な駐車場の脇に、何かの建物を利用して設けた場所だ。面白い外観なので、何となく眺め入ってしまった。
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「何か凄く大きい?!」と思ったが、奥行きは然程でもなく、格別に大き目という感じでもなかった。「だから?」という話しで恐縮だが。

<北の錦 記念館>:小林酒造:栗山(2024.05.13)

↓小林酒造の敷地に入って直ぐのような辺りに、やや大きく貫禄が感じられる建物が在る。
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↑1944(昭和19)年に完成した建物で、小林酒造の本社事務所として利用されていたのだという。1995(平成7)年から<北の錦 記念館>として公開されている。酒器等の展示が在るが、各種の酒類やグッズを売る売店になっている。

更に加えると、プロ野球の北海道日本ハムファイターズで活躍していた栗山監督は「自身の姓と同じ地名!」と栗山町に惹かれて、度々訪れて活動もしているのだが、この<北の錦 記念館>にも栗山監督のサインが入ったユニフォーム等が飾られていた。そんなことで、地元の皆さんは栗山監督が退いた現在でも熱心に北海道日本ハムファイターズを応援しているようでもある。

小林酒造は炭鉱町等の旺盛な酒類需要に応えるべく製造量を増やして“大工場”の様相を呈したようだ。1936(昭和11)年頃の時点で満州や樺太にも販路を広げていたという。そういう中で、現在の<北の錦 記念館>になっている本社の建物が登場したということだ。

この建物は「小樽の銀行」を模したものであるのだという。小樽では「嘗ての銀行」という旧い建物を色々と観ているが、確かにその種のモノを想わせる外観の建物だ。

嘗ては「量産」というようなことが志向されたというが、近年は最盛期の1割強という製造になっているという。量より質ということになる。

2000年代には北海道内で栽培される酒造好適米の品種登録が相次ぎ、小林酒造ではそれらを使用している。北海道の酒造好適米も、最近は評価が高まっているということで、それを使って「北海道の酒」を標榜しているのだという。

今般、煉瓦造の建物を眺めたいと、この小林酒造を訪ねてみたが、非常に好かった。早くも「何時か再訪…」というようなことを考えている。

伝票…:<小林家>:小林酒造:栗山(2024.05.13)

↓<小林家>の喫茶店を利用すると、こういうモノが登場する。
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↑銘酒の一升瓶に貼るラベルのようなモノだ。

↓「何?」と思えば伝票だった。
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一升瓶のラベルを想わせるモノの裏を伝票にするというのも、如何にも酒造会社である。が、こういう「らしさ」を醸し出す細かい演出は非常に愉しい。

「しゃりしゃり甘酒氷」…:<小林家>:小林酒造:栗山(2024.05.13)

<小林家>で暫し休憩という感じだった。「甘酒しるこ」と甘酒そのものを頂いて温まった。

そうしていた中で、何やら非常に気になるモノが在った。簡単に訪ねられるという場所でもない訳なので、実物に触れておかなければ、きっと後悔してしまうと思った。

↓そして御願いしたのがコレである。
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↓甘酒を凍らせて小さなキューブアイスを作る。それをデザート用の鉢に盛り付ける。名付けて「しゃりしゃり甘酒氷」という。
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材料は<北の錦>の大吟醸の粕を使って作る甘酒である。小さなキューブアイスを些事で掬って口に入れると、口の中で蕩けて甘酒の味が深く拡がる。これは美味いモノだ。

アルコール度数が高い酒のようなモノは凍り悪いと思う。(ウォッカやジンのような40度程度、それ以上のスピリッツは冷凍庫に入れておく場合もある。寧ろそれが推奨されている面も在る。)こうやって凍るということで、甘酒は別段にアルコールを含むのでもないことが判るというものだ。

温まった後に冷たいモノと忙しいことになり、内心では苦笑いが漏れてもしまった。が、これ程に美味いモノは試さずに立ち去ったのでは後悔した筈だ。そういう意味で非常に善かった。

「甘酒しるこ」…:<小林家>:小林酒造:栗山(2024.05.13)

中に喫茶店が設けられている<小林家>で、雨に濡れて少し身体が冷えたような気がしたので、温かいモノを頂いてみたかった。

↓こういうモノを御願いした。旧家に伝わる、シンプルな外観ながらも、丁寧に造られたように見受けられる漆器の椀が出て来た。そしてカップの甘酒が添えられている。
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↓漆器の椀の中身である。「甘酒しるこ」である。
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↑<北の錦>の大吟醸の粕を使って作る甘酒を使っているのだという。それに餅と些かの餡を入れている。これが凄く好かった。添えられたカップの甘酒も同じく大吟醸の粕を使って作られたのだという。

如何にも「酒造会社の関係の御店」という感じだ。酒粕の甘酒を苦手とする方も在るのかもしれないが、自身はかなり好きなので、これはかなり気に入った。そしてゆったりと温まり、元気になった。

「千枚の布」…:<小林家>:小林酒造:栗山(2024.05.13)

↓<小林家>に入ってみる。スタッフの皆さんに迎えて頂けるのだが、玄関の辺りに不思議なモノが在る。
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↓夥しい数の布を組合わせている。
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明治時代の終わり頃、2代目社長の夫人が傷んだ着物の未だ使える布を切り取り、2枚重ねて繕っていたのだという。そうしたモノが千枚程も次の代以降に受継がれたという。それを組合わせて創ったモノが飾られている。

「使えるモノは最後の最後迄使う」という考え方である。発展し始めた会社で大きな利益も上がり始めていた中、飽く迄も質素に、堅実に暮らそうとしていたという様が伺える。

なかなかに興味深い展示だ。

<小林家>…:小林酒造:栗山(2024.05.13)

雨が交り続けていた中で駅から歩き続けていた。加えて小林酒造の敷地も少し広い。着ていた上着と被っていたキャップが濡れて、何処かで少し休みたくなった。

↓そういうように思っていれば「営業中」、「テイクアウト」という喫茶店を示唆するような看板が掲出されている建物に出くわした。
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↑これは小林酒造の創業家である小林家の人達が住んでいた経過の在る建物で、<小林家>と呼び習わされている。

小林酒造は1878(明治11)年に札幌で起こり、1900(明治33)年に栗山に移って現在に至っている。その栗山に会社が移った頃、創業家ではこの建物を建てた。そこから長く小林家の人達がこの建物に住んでいた。2013年頃迄は普通に使われていた。文化財として何とか保存しようということになって、2014年から現在のような感じになっているそうだ。地元の栗山町としても、その活用と保存ということに関して検討し、活動をしているようだ。

↓喫茶店に入った。中庭を囲うように建物が建てられているようだ。
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新築の頃から120年を超える、少し規模が大きな邸宅である。なかなかに貴重なモノだ。喫茶店になっている部分が在るということで、御邪魔してみたのだった。

小林酒造:栗山(2024.05.13)

「煉瓦造の建物で清酒を醸していた経過で、現在もそういう建物を使い続けている会社」と聞き、強く興味を抱いた。更にその煉瓦造の建物が多々残っているとも聞き、「観に行ってみよう」と思い付いた。

岩見沢・苫小牧間の列車に乗ったことは在った。その際に栗山駅は通り過ぎている。

岩見沢は列車本数も多く立寄り易いが、栗山は列車本数が少なく立寄り悪い。それでも訪ねたかったので、今般は1日の時間を設け、旭川との間を往復してみることとしてみたのだ。

煉瓦造の建物が見える辺りに至り、歩を進めると小林酒造関係の看板等が眼に留まり易くなる。
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↓公開になっている箇所へ入る辺りだ。
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↓建築群は文化的な価値も評価されており、紹介パネルが掲出されていた。
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↓酒造会社の伝統を汲んだ「杉玉」や「注連縄」が見受けられる。
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↓小林酒造の銘酒を扱った特約店で使った看板が飾られていた。こういう「往年の看板」というようなモノは、今日の目線で観ても美しいと思う場合が多いような気がする。
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↓色々な建物が在って、古いモノの展示などが観られる様子だった。
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↓煉瓦造の建物の壁に蔦が絡まるというような様子は好い感じだ。
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↓昭和期に長く使用された、蒸気を起こすボイラーであるそうだ。こういうモノは造船所―現在でもそうだが、造船所は優れた鉄工のノウハウを有するので、色々なモノを造るのである。―に発注したようで、これは函館で造ったそうだ。
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↓「酒造会社の建築群」として、「在りそうで無い」というような、個性的な感じがして興味深い。
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↓炭鉱町での旺盛な酒類需要に応えるべく、相当な量の清酒を製造していた経過が在り、多くの建物が続々と登場した経過が在るようだ。
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↓雨が交り続けていて、着ていた上着と被っていたキャップが濡れて、何処かで少し休みたくなった。が、それはそれとして、非常に興味深い場所だと思った。
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↓違う天候条件の中で再訪したいと、現地に在る間から既に考えていた。
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ここを訪ねてみて好かった。

第一副港辺りの眺め…:稚内港(2024.05.16)

朝、好天に誘われるように辺りを歩いた。多少の風の冷たさは、それ程気にはならなかった。

↓稚内港の繋留濠である第一副港の辺りに至った。
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↓濠に沿って歩く。
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↓海水面が鏡面のような様子である。天の様子が足元にも広がるような、不思議な程の様子だった。
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↑係船柱で翼を休める海鳥も、この様子を眺めているかのようだった。

↓鏡面のような海水面と、少し揺らいでいる海水面とが混在している。揺らいでいる側は、朝の光を跳ね返して光っている。
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↓繋留中の船の姿が海水面に綺麗に映り込む様が好い。
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↓歩いて辿った側を半ば振り返るように見ると、タグボートが何時ものように見えていた。
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何度も歩いている場所であるが、見る都度に様子が違う。そういう様子を眺めるのが好い。

旭川駅到着…(2024.05.12)

「列車に乗って通過したことは在っても、下車したことは無かった」という駅で下車して辺りを歩き廻るというのが、今般の行動の主眼というようになっていたかもしれない。

そう思うのも上富良野訪問が好かったからだ。小説『泥流地帯』を読んだということが在って、上富良野は気になってはいた。些か列車本数が少なく、やや訪ね悪い面も在る場所だが、旭川を「前線拠点」というようにして往復するという方式で訪ねることが叶った訳だ。

↓色々と考え事をしていれば、1時間程の乗車時間は直ぐに過ぎてしまう。上富良野で乗り込んだH100形は旭川駅に到着した。
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↑停車して乗客を降ろしたH100形は、然程の間隔を開けず、折り返しで富良野へ向かう様子だった。

↓西改札口から出て、西寄りの出入口から旭川駅前に出た。
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↓駅舎を背に佇んだ時の眺めも、かなり眼に馴染み、「多少勝手知った(つもりになっている)他所」という程度に呼んでみたくなる感が強まる。
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こういう具合に「少し離れた場所の馴染みの駅」という感じの場所が増えるのは少し嬉しい感じでもある。

上富良野駅を発つ…(2024.05.12)

↓上富良野駅に至った。
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↑少し待つと旭川へ向かう列車がやって来る。列車本数が然程多くない。乗込むことにした。

↓少しの間は駅舎内の待合の椅子に掛けていたが、「あと数分?」という頃になって、ホームに出て列車を待った。旭川方向への列車に乗る人達は存外に多かったかもしれない。
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↓H100形も、何時の間にか眼に馴染んだような気がする。
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↓これが停まって、扉が開いて乗込み、上富良野から離れる。それだけだが、乗ろうとしている列車を見ながら、既に「次の機会?」というようなことを考えてしまっている。
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今般の上富良野訪問は好かったと思う。

<上富良野町郷土館>…:上富良野の街角(2024.05.12)

「開拓記念館」を訪ねようと上富良野駅から(多分)3km前後の道程を歩き、その同じ道を引き返しながら、上富良野駅を通り過ぎた市街地に至った。

↓こういう看板を見掛けた。
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↑施設を紹介している場面で<かみふらの郷土館>となっている例も見受けられた。が、この看板が強く記憶に残るので、記事件名は<上富良野町郷土館>とした。多分、町立の施設であって、公には「上富良野町」としているだと思う。来訪する人達等への宣伝の意味合いで「かみふらの」と敢えてする場合も見受けられるということなのであろう。些事だが。

↓上記の看板の或る側へ少し歩を進める。「何処?」と左側を向くと立派な建物が在った。
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↑確りと正面の壁の上方に「郷土館」と在る。間違いない。

↓なかなかに貫禄が在る見映えなのだが、往年の村役場を模した建物であるのだという。1919(大正8)年に登場した、他所でも類例が稀な程度の建物であったという「上富良野村役場」庁舎を模した。
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↑1978(昭和53)年、現在へ連なる自治体の礎が築かれて80年を記念して建てられたのだという。

「入場無料」となっている。日付、人数、町内または町外の別、町外の場合は何処からかというのを表に書き記すというようになっている。

1階は左側が事務所のようになっていて、右側が展示室だった。「十勝岳ジオパーク 美瑛・上富良野エリア」という活動に関連し、自然関係、十勝岳を紹介する見地で「大正泥流」の話題を提供するという展示だった。

偶々なのだが、この場所で来る5月24日に上演するという紙芝居のリハーサルを行っているところだった。上演する際と同様に通してやってみるという場面になっていて、それを拝見した。「大正泥流」の挿話等の物語で、なかなかに興味深かった。

1階奥の真中に上へ上り、右、左と2方向に枝分かれした、往年の官公署や会社の建物に見受けられそうな設えだ。右側へ上り、2階の展示を一回りして左側から下りるという順路になっていた。

その2階は歴史関係である。

「開拓記念館」は、主に「三重団体」が入った経過や、「大正泥流」の際に懸命だった吉田貞次郎の事績等に少し絞り込まれた展示で、あの建物自体が興味深い。<上富良野町郷土館>はもう少し幅広く、街での暮らしや、農業等の変遷というようなことが判るような内容も加わっている。

当然ながら<上富良野町郷土館>でも「大正泥流」関係の紹介が在る。驚いたのは鉄道の件である。館内に枕木やレールがグチャグチャに流されて溜まってしまったような様子が判るようになった展示や、災害当時の記録写真、一部に「モノクロ写真の色復元」という処理を施した写真も在った。その中に、線路の下の土を抉って、そこから線路を捲り上げたようになっている写真が在った。「泥流」の威力の凄まじさが窺い知れる。

だが、凄まじい破壊以上に驚いた話しが在る。完全に破壊されてしまった鉄道だったが、数百人の作業員を投入して、数日後には列車が通ることが出来るようにし、以降は順次整えたということらしい。この「完全に破壊されたような鉄路を、数日でとりあえず使えるようにした」という史実に関して、或る意味で破壊の様の紹介以上に驚かされた。そして「最近の災害で鉄道が傷んでしまった時の様子は?」と、少々余計な事も頭の中を過った。

↓既に45年を経て、やや古くなった建物ではあるのだが、中の展示は興味深い。「開拓記念館」と相互に或る程度補完しながら上富良野の歴史が伝えられていると感じた。
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「郷土誌」という語が在る。「郷土史」と似ているが、やや違う。

「郷土誌」とは、「郷土の地方的特性を、歴史、地理、風土、信仰、習俗、産業等の多方面から調査した記録」というような意味の語だ。上富良野では、地域のことを伝えるとして、歴史や十勝岳のことや産業の変遷というようなことを総合的に伝える、文字どおりに「郷土誌」的な取組をしていると観た。

何度か列車で通り過ぎたというだけだった上富良野である。「大正泥流」の後の人々の努力によって、今日でも列車で通り過ぎられる。それを初めて上富良野で列車を下りて、色々と見学をした中で知った訳である。

色々な意味で記憶に残る上富良野訪問だった。

早めな夕食…:<やき鳥 よしや>:旭川 5・7小路 ふらりーと(2024.05.11)

旭川市内を歩き廻っていた。好天の中、やや汗ばんだ。

↓小さな御店が集まっている一画に至った。5条通7丁目だ。
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↓「旭川 5・7小路 ふらりーと」という看板が掲出されている。
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↑小路を挟んで幾つもの御店が連なっている。聞けば、1920年代頃から食品等を扱う商店が集まっていた一画だという。火災が在って、商店が移転する等したが、戦後に入って飲食店が辺りに集まるようになったのだという。

↓大きな提灯が飾られていた。
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↑「ふらりと立ち寄る焼き鳥横丁」というイメージの一画であることから、2004年に<ふらりーと>という愛称が付けられたのだそうだ。

↓渋い感じの御店だ。
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↓一寸、暖簾を潜ってみた。
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↓画の左側の小上りは何組かのグループで埋まっていたが、カウンターは未だゆとりが在り、少し寛いで焼鳥を御願いすることにした。
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↓ハイボールを頂き、御通しを摘まみながら焼鳥の登場を待った。
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↓4串単位が殆どなので、3種類頼むとなかなかのボリュームであった。
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↓手前の白く見える「かしわ」、時計回りで上方が「たん」(豚)、右が「もつ」である。
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正直「やや多い?」と思わないでもなかったのだが、長く受継がれているというタレの美味さ、アッサリした鶏肉ということで、順次摘んでいると直ぐに平らげてしまった。

旭川にも色々な場所が在るが、この「ふらりと立ち寄る焼き鳥横丁」というイメージの一画、<ふらりーと>の御店も好い感じだ。