昼に辺りを歩き廻った。
↓何か惹かれて、空地のようになっている場所で眺め入ってしまった。
↓新旧の建物や塀が在る場所の隙間のような場所に花が咲いていた。
↓こういう静かに咲いている花に気付くと、何となく嬉しいように感じる。
旧い建物…(2024.10.27)
朝に…(2024.10.27)
第一副港辺りの眺め…:稚内港(2024.10.26)
↓稚内駅の辺りから歩き始めると、直ぐに稚内港の繋留濠である第一副港の辺りに至る。
↓清々しい感じであると思いながら、濠に沿って歩を進めていた。
↓辺りを利用している底曳船も各々に活動していて、出てしまっている船も在るが、繋留している船も見受けられた。
↓濠の縁で海鳥が翼を休めていた。対岸に船が見えた。
↓何か凄く画になる様子だと思い、何となく歩を停めた光景だ。
↓対岸を眺めながら濠に沿って歩を進めた。
↓タグボートが繋留中の辺りを眺めた。
↓タグボートが見える光景というような感じが気に入っている。
↓濠の奥部側に歩を進めた。
↓水面、船、雲、そして光が好い感じだ。
こういうような「見過ごし勝ちな麗しい様子」に気付きながら歩くというような感じが凄く愉しいと思う。
↓清々しい感じであると思いながら、濠に沿って歩を進めていた。
↓辺りを利用している底曳船も各々に活動していて、出てしまっている船も在るが、繋留している船も見受けられた。
↓濠の縁で海鳥が翼を休めていた。対岸に船が見えた。
↓何か凄く画になる様子だと思い、何となく歩を停めた光景だ。
↓対岸を眺めながら濠に沿って歩を進めた。
↓タグボートが繋留中の辺りを眺めた。
↓タグボートが見える光景というような感じが気に入っている。
↓濠の奥部側に歩を進めた。
↓水面、船、雲、そして光が好い感じだ。
こういうような「見過ごし勝ちな麗しい様子」に気付きながら歩くというような感じが凄く愉しいと思う。
バルーン…:ジャック・オ・ランタン(Jack-o'-Lantern):稚内市立図書館(2024.10.26)
<LAWSON>…(2024.10.26)
天と雲…或いは雲と天…:第一副港の辺り(2024.10.26)
朝に…(2024.10.26)
映画館へ…(2024.10.28)
↓稚内駅のビルの2階に映画館が入っている。
↑1階に映画のポスター等が掲出されていて、それを眺める場合も多い。時に「これは是非観たい!」を見出す。
↓階段を上がる。
↓ホールが設えられていて、入場券を求める他、売店が利用出来る。
↓3つのスクリーンが設えられている。2番での上映を観た。
↓一番乗りで中に入った。
↓個人的に好きな「眼前にスクリーンが在るばかり」というような辺りに陣取った。今般「自由席」ということで、席の指定が無かった。
↓興味深く観た作品の予告篇のリンクを入れておく。
『八犬伝』というのは江戸時代の後期、19世紀の小説である。現代風に呼ぶならば「ファンタジー」ということになるであろうか。作者の滝沢馬琴(「曲亭馬琴」という号も用いている。)は、この作品を通算28年間に亘って綴り続けていた。最終的には眼を患ってしまい、失明して上手く原稿を綴ることが叶わなくなってしまった。が、それでも先立ってしまった息子の妻であった女性が、最初から文章を綴ることを得意としていたのでもなく、漢字を余り知らないような状況でさえあった中で懸命に手伝い、作品が完成している。
映画では、この滝沢馬琴の物語が柱になる。熱い想いを胸に、人生を賭すように執筆に懸命な馬琴が在る。そして妻や息子との生活も在る。この滝沢馬琴の年来の友人である葛飾北斎が在り、息子の友人である渡辺崋山が在るのだが、滝沢馬琴が家を訪ねて来た彼らに「あの『八犬伝』の構想は…」と語っている内容として、「ファンタジー」の『八犬伝』の物語の映像が在る。
こういうような形で、滝沢馬琴自身の人生という“実”の部分と、彼が創った「ファンタジー」の物語が展開する“虚”の部分とが螺旋のように絡み合って展開するのがこの映画だ。
自身としては、本作は滝沢馬琴自身の人生という“実”の部分が主軸となる物語であるように思う。が、他方の「ファンタジー」の『八犬伝』の物語の映像が素晴らしい。“八犬士”という、「珠を持っている運命の戦士達」が登場するが、限られた尺の中で彼らが上手く紹介され、やがて巡り合って共闘し、巨大な怨霊が背後に在る悪の勢力を討つという様子なのだが、最近の技術を駆使した美しい画で織り成される物語が凄く好い感じであった。
滝沢馬琴自身の人生という“実”の部分では、葛飾北斎との対話、歌舞伎を観に行った場での鶴屋南北との対話、息子を見舞に立寄った渡辺崋山との対話というようなことを通じて、個人の人生、更に社会の“虚”と“実”について、その“虚”や“実”との向き合い方に関して語っているような内容が心に刺さる。更に、身体が弱く、自身の何らかの業績という程のモノが無いながら、喜びと矜持を持って父が綴る原稿の校正等をしていた息子が、「父と作品を…」と言い遺して他界した経過を踏まえ、息子の妻が滝沢馬琴の執筆を手伝い、支えようとする終盤の方は、観ていて涙ぐむかのような感じも在った。
映画を制作する、出来上がった映画が公開されてそれを観るという営為も、“虚”と“実”が交差するような営為であるような気がする。鑑賞後にそんなことを思い付いたが、“虚”と“実”とを織り交ぜた物語は興味深かった。
↓映画を観た後、寄道してパンフレットを眺めて作品を振り返るというようなことをするのも、映画を観る場面では好いと思う。
休業日の午前中、なかなかに充実していた。
↑1階に映画のポスター等が掲出されていて、それを眺める場合も多い。時に「これは是非観たい!」を見出す。
↓階段を上がる。
↓ホールが設えられていて、入場券を求める他、売店が利用出来る。
↓3つのスクリーンが設えられている。2番での上映を観た。
↓一番乗りで中に入った。
↓個人的に好きな「眼前にスクリーンが在るばかり」というような辺りに陣取った。今般「自由席」ということで、席の指定が無かった。
↓興味深く観た作品の予告篇のリンクを入れておく。
『八犬伝』というのは江戸時代の後期、19世紀の小説である。現代風に呼ぶならば「ファンタジー」ということになるであろうか。作者の滝沢馬琴(「曲亭馬琴」という号も用いている。)は、この作品を通算28年間に亘って綴り続けていた。最終的には眼を患ってしまい、失明して上手く原稿を綴ることが叶わなくなってしまった。が、それでも先立ってしまった息子の妻であった女性が、最初から文章を綴ることを得意としていたのでもなく、漢字を余り知らないような状況でさえあった中で懸命に手伝い、作品が完成している。
映画では、この滝沢馬琴の物語が柱になる。熱い想いを胸に、人生を賭すように執筆に懸命な馬琴が在る。そして妻や息子との生活も在る。この滝沢馬琴の年来の友人である葛飾北斎が在り、息子の友人である渡辺崋山が在るのだが、滝沢馬琴が家を訪ねて来た彼らに「あの『八犬伝』の構想は…」と語っている内容として、「ファンタジー」の『八犬伝』の物語の映像が在る。
こういうような形で、滝沢馬琴自身の人生という“実”の部分と、彼が創った「ファンタジー」の物語が展開する“虚”の部分とが螺旋のように絡み合って展開するのがこの映画だ。
自身としては、本作は滝沢馬琴自身の人生という“実”の部分が主軸となる物語であるように思う。が、他方の「ファンタジー」の『八犬伝』の物語の映像が素晴らしい。“八犬士”という、「珠を持っている運命の戦士達」が登場するが、限られた尺の中で彼らが上手く紹介され、やがて巡り合って共闘し、巨大な怨霊が背後に在る悪の勢力を討つという様子なのだが、最近の技術を駆使した美しい画で織り成される物語が凄く好い感じであった。
滝沢馬琴自身の人生という“実”の部分では、葛飾北斎との対話、歌舞伎を観に行った場での鶴屋南北との対話、息子を見舞に立寄った渡辺崋山との対話というようなことを通じて、個人の人生、更に社会の“虚”と“実”について、その“虚”や“実”との向き合い方に関して語っているような内容が心に刺さる。更に、身体が弱く、自身の何らかの業績という程のモノが無いながら、喜びと矜持を持って父が綴る原稿の校正等をしていた息子が、「父と作品を…」と言い遺して他界した経過を踏まえ、息子の妻が滝沢馬琴の執筆を手伝い、支えようとする終盤の方は、観ていて涙ぐむかのような感じも在った。
映画を制作する、出来上がった映画が公開されてそれを観るという営為も、“虚”と“実”が交差するような営為であるような気がする。鑑賞後にそんなことを思い付いたが、“虚”と“実”とを織り交ぜた物語は興味深かった。
↓映画を観た後、寄道してパンフレットを眺めて作品を振り返るというようなことをするのも、映画を観る場面では好いと思う。
休業日の午前中、なかなかに充実していた。