↓その「12月25日」、クリスマスの朝に眺めたクリスマスツリーだ。

↑クリスマスツリーが何時の間にか登場してから、飾られている稚内駅のビルの中を何度も通り、何度も観ていた。
「クリスマス」だが、「神が人類の罪を償うために人の姿でこの世に現れたことを信じる」ということが趣旨で、キリストが実際に何月何日に生まれたということが鍵なのでもないのだという。実際、キリストの誕生日が何月何日なのか、明確な記録や、それらしい何かの情報が在るという程でもないらしい。
「12月25日」に催事を催すようになったことに関して、冬至に関連していて、冬至の後に少しずつ日が出ている明るい時間が延びるということで「光を迎える」というような古い催事が在って、そういう催事に「キリストの降誕」が重ねられていったという説を耳にしたことが在った気がする。
何れにしても年末である。少し華やぎ、愉しいことも、心安らぐことも在るような感じだ。「来し方」を振り返り、無事に現在在ることに感謝し、明日へ向かって堅実に歩むことを願うというような様子になるのであろうか。
毎年のようにクリスマスの時季にはそういうようなことを思う。他方に、災害、飢饉、戦争というような様子の最中に在って、華やぎ、愉しさ、安らぎというような様子と縁遠く、「クリスマス」というような時季に入ったのか否かがよく判らないという例も多く在るのだと思う。誰しもが「来し方」を振り返り、無事に現在在ることに感謝し、華やぎ、愉しさ、安らぎというような年末の時期が迎えられると善いと思う。
クリスマスツリーを眺めてそんなことを思っていた。
華やぎというような程でもないかもしれないが、年末には愉しく心安らぐようにと、少しばかり時間を設けて随意に過ごすということにしたのだった。