大阪城では、江戸時代に徳川幕府が建築した状況のままに残っているモノ―「大坂城」だった頃のモノ―が幾分在り、色々なことを伝える貴重な存在となっているのだが…「明治150年」という今年、徳川幕府が瓦解して行った経過にも立ち会っている、そうしたモノを特に公開している…
↓「日本の城の建物内」という雰囲気が色濃い…
↑城の区画を囲う石垣の側に在って、城内を移動する際の通路になり、敵と対峙する将兵が詰めた場所…「多門櫓」と呼ばれる構造物である…
大阪城にもこの「多門櫓」と呼ばれた構造物は多々在ったらしいが、現存しているのは第2次大戦期の大阪空襲の被害を免れた、この大手口のモノだけである…
大手口多門櫓は1628年に建築され、1783年に落雷による火災で焼失し、1848年に再建されたのだという。幕末期に大阪城に入った14代将軍の徳川家茂、15代将軍の徳川慶喜もこの「大手口多門櫓」を通って本丸の御殿へ向かっていたらしい…
そんな話しを聞けば…幕末の<鳥羽伏見の戦い>の後、徳川慶喜が大坂城を抜け出して、半ば乗っ取るように乗り込んだ<開陽丸>で密かに江戸に引揚げてしまうという挿話が在るが…そういう場面で血相を変えて「大樹公は何処におわす!!」と口々に叫ぶ関係者が、絵の場所をドタドタと走り回っていたのかもしれないと想像してしまう…
↓大きな大坂城の構造物だけに、天井も高く、なかなかに立派だ…
「大阪城天守閣」は、「昭和の代」になったことを記念する事業という位置付で、「“大大阪”のシンボル」として築かれたモノなのだが…大阪の<大坂城>は、間違いなく「歴史の舞台」なのだ…そんな「当たり前」かもしれないことを改めて想った…
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