↓「天守閣跡」という場所を眺めに行ってみた…
↓「多少汗ばむ…」という程度の好天だった…
↓脇の方からはこういう具合に見える…
毛利家は中国地方で最大の勢力を誇る大大名だった…思えば…現在の岡山県や鳥取県より西の本州西端部は、かなり広く毛利家の傘下だった訳だ…これが、江戸幕府によって「防長」と呼ばれる長門と周防の知行地だけが認められ、その本拠地として萩に城が築かれた訳だ…
↓近くに残っている、重臣のモノだった長屋に「嘗ての萩城」の模型と明治初期と見受けられる古写真が飾られていた…
指月山周辺の敷地に石垣を築き、城が攻められた時の防衛拠点を山上に設け、他方で敷地に様々な建物を建てている。天守閣も、現在の石垣だけの“跡”の場所に確り建っていた訳だ…
戦国時代末期の「大大名」の頃を想えば、萩城は「かなり縮小」ということになるのだろうが…それでもなかなかに壮大だったように思える…
この種の跡地…ここのような「街の、一寸訪ねられるような場所」に在るのが好ましい…
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