↓札幌駅のやや北西…北海道大学の正門の辺り…歩道の上だ…
↑「誠」の文字が入った幟が描かれている?
「誠」の一文字をシンボルマークにしていたのは、幕末期に活躍した<新選組>である…
幕末期の京都で、幕府が派遣した「京都守護職」の会津松平家の傘下で、街の治安維持を目的に“不逞浪士”を取締り、斬り合いに及んで斬ってしまった例も多々在る…戊辰戦争と呼ばれる旧幕府系勢力と新政府との争いの中、旧幕府系勢力の最後の抵抗ということになった“箱館”の戦いで、新選組関係者も参加している…
そういう経過が在るので、北海道内では函館で新選組がやって来て戦いに参加した経過に因み、色々なグッズが売られていたりもする…札幌では?新選組に関連することが持ち上がる例は思い当たらない…が、「札幌都心の一隅」と言っても差し障りが少ないような、北海道大学の正門辺りに新選組のシンボルマークの「誠」が登場する…
↓歩道路上の「誠」の脇に、こういうモノを飾る謂れが綴られた立札が在る…
↓立札には、明治時代に新選組に居た経過が在る永倉新八が当時の<札幌農学校>に出入りしていて、若者に剣術の指導をしていた経過が紹介されている…
<新選組>だが…これには雑多な背景を有する「腕に覚え!」という人達が参加していた…
永倉新八は<新選組>の母体が立ち上がる当初から参加していた人物だ。中核的な隊士が出ている、江戸の剣術道場であった<試衛館>に関わっていた人物だ。<試衛館>とは、<新選組>の局長ということになって行った近藤勇が主宰していて「天然理心流」を伝える場であった。が、他流派の人達も盛んに出入りしていて“食客”となっていた。永倉新八もそういう“食客”の1人だった。永倉新八の剣術は「神道無念流」であったという。
この<新選組>に参加した人達等、当時の色々な人達に関する紹介で「○○脱藩」というのが見受けられる。「大名家の家中から離れて浪士となった」というのが「○○脱藩」ということだ。永倉新八に関しては「松前脱藩」ということになっている。
松前家は、蝦夷地(現在の北海道)で通商を行う権利に関して「知行」という扱いになっている、少し「変わり種」な大名家であったが、色々な必要性が在って江戸に邸を有していて、家中の武士達の中には江戸邸で働く者達も在った。永倉新八はその江戸邸に在った士の家の出であるようだ。<新選組>へと繋がる<浪士組>が京都へ向けて旅立つような時点で、松前家の江戸邸を離れてしまっているので「松前脱藩」という訳である…
戊辰戦争の展開の中、永倉新八は江戸で<新選組>の他の主立った人達と別れて行動することになる。そして新政府側から追われる身になってしまった時点で、松前家との縁が生き、救いの手が差し伸べられる。松前家中の杉村家の養子ということになって名前を変え、北海道に移り住んだ訳だ…その北海道に移り住んだ後、この北海道大学正門で紹介されている挿話、<札幌農学校>に出入りして若者に剣術の指導をしたという出来事が在るのだ。
ささやかなモニュメントだが…非常に興味深い!!
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