小説『象の墓場』を読んで…(2020.01.26)

写真用のフィルムというモノ…「最後に求めたのは何時だったか?」と不意に思った…

↓そんなことを思ったのは、こういう小説を読んだからだ。「やや強い余韻」とでもいうようなモノが読後に残る小説だと思う…偶々覗いた書店で何となく眼に留めて入手した一冊であったが、紐解き始めると頁を繰る手が停まり悪くなってしまった。

象の墓場 (光文社文庫)



↑“実話”に着想を得ている物語で、非常に興味深い内容であると思う。明らかにかの<コダック>をモデルにした大企業の物語ということになる…

「歴史」とでも言えば、「遠い昔」というように思ってしまうと思うのだが、そういうモノに限らずに「自身の人生の時間」の中で、後から振り返って「あれば歴史上の大きな動きということになるかもしれない…」という動きは起こっているモノだ。

本作『象の墓場』は、世界的なフィルムメーカーに勤める最上という会社員を主要視点人物とし、1990年代から2000年代に入るまでの経過が描かれている。

1990年代から2000年代に入る頃というのは、“写真”というモノの在り方、存在感が人々の中でドンドン変わって行き、フィルムの会社のような企業のビジネスが大きく変わらざるを得なかった、或いは「古くからの写真フィルム関係のビジネスが倒壊」とでも言うようなプロセスが進んだ時期である。

自身でも1990年代に入ったような辺りに「趣味?写真…」という程度に写真を撮るようになっていたと思う。カメラを手にし、フィルムを入手し、それを使ってドンドン現像プリントをして、気に入った写真をアルバムに保存するというような感じになった。やがてカメラを多少グレードアップした、交換レンズを色々と入手ということも在ったが、何処かへ出掛けようという時等は「何十本」という程度にフィルムを買い込んで「X線をカット。鉛入り。食品を入れることを厳禁!!」という袋に容れて持ち運び、相当な経費を投じて現像プリントをしていた。フィルムに関しては「何となくの好み」で<コダック>や<AGFA>を選ぶことが多かったかもしれない…

2000年代に入り「話のタネに…」とデジタルカメラを入手した。コンパクトカメラのような形のモノで、確か<コダック>の製品だった。やがて「フィルムを求めて現像プリント」では経費が嵩んで、何となく「写真を愉しみ悪い?」と感じるようになり、何時の間にかフィルムを入れるカメラは全然使わなくなった。そして「デジタルカメラのデータを持ち込んでプリント」というのも、安価に普通に出来るようになった中、「プリントが欲しい場合はそのサービスを利用」ということになって行った。そうしていた間に、何時の間にか<〇〇カメラ>というような、カメラ関係のモノや家電等々を売る大きな量販店に寄って、「大量のフィルムが並んでいたコーナー」を視掛けなくなっていた…そういう中でデジタルカメラは何年か毎に入手して使い、近年では<フジフィルム>の<Xシリーズ>が気に入ってしまって愛用している訳だ。

本作『象の墓場』の作中、「フィルムからデジタルへの橋渡し」というようなことで、最上達は色々なことを試みた…が…「成功」というようなモノから見放され、社会がドンドン変わって行く。作品の冒頭と、作品の末尾とで最上は新聞社の写真部員であるカメラマンと話すのだが、この対話が作中で描かれた1990年代から2000年代に入る頃の「変化」を如実に表すものかもしれない。そしてこの間に最上達の「苦闘の日々」が描かれる。

ハッキリ言えば…作中の世界的大企業のようなフィルムメーカーが辿らざるを得なかった運命、様々な模索が巧く運ばない他方でドンドン進んだ時代の変化というようなモノを、「自身の人生の時間」の中での経験として承知している。それでも本作は眼が離せなかったと言うのは、「技術と人間と」とでもいうような、非常に大きなスケール、普遍的なことに想いを巡らせざるを得ないからだ。また「巨大過ぎて、成功し過ぎていた」が故に転落して立ち直り難くなった、作中の会社のモデルとなった<コダック>の他方、最近に至っても化学関連製品や独特なデジタルカメラで存在感を示す<フジフィルム>―小説の中にも明らかに<フジフィルム>をモデルにしていると見受けられる“商売敵”が登場していたが…―が在り、両者の明暗の差にも想いが巡る。

敢えてここで「読書の感想」を取上げたのは、「自身と写真との係わりの年月」を何となく想い起させる内容で、「既知の時代変化」ということに留まらないような、「やや強い余韻」とでもいうようなモノが読後に残る小説であったからだ。

因みに「写真用フィルムというモノを最後に求めたのは何時だったか?」という問いだが、最早その「何時?」を思い出す事さえままならない…

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