
↑日本国内にも胸像は見受けられるが、何となく「ユジノサハリンスクで親しんだ…」という印象が個人的には強い…
↓胸像はこういう具合に、松山市内に在る…

↓胸像の人物はロシア帝国の海軍で大佐であったワシリー・ボイスマンである…「墓」となっている…

↓辺りには、こういうような具合に「墓」が沢山在る…

↑墓碑銘には「露國海軍水兵」とか「露國歩兵率」というような具合に「露國」という文字が視える…
「露國」とは「ロシア」を指し示す表現に他ならない。1904(明治37)年から1905(明治38)年の<日露戦争>の頃、ロシア陸海軍の将兵が捕虜となる事例が在り、捕虜は日本国内に設けた収容施設に送り込まれた。
往時の日本では<陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約>と呼ばれたそうだが、1899(明治32)年に戦時の様々なことを申し合わせる条約が締結されていて、日本もそれに調印している。<日露戦争>の当時、日本では「条約を遵守している」として、ロシア将兵を捕虜とした場合に適切に対応していると宣伝も行っていたようだ。それ故、収容施設の1つが在った「マツヤマ」の名は国際的にも少し知られていたという。
そういうことで、「捕虜は罪人ではない」とし、松山では捕虜のロシア将兵を「縁在ってやって来ることになり、滞在している外国人達」という程度に迎えていたようだ。
そんな中、傷病等によって戦争終結後に帰国が叶わずに他界してしまった人達も在り、98名が松山で葬られ、墓地が設けられた。その中、最も上席であった人物がワシリー・ボイスマン大佐だったので、「一同の代表」というように大きめな墓碑が出来たのだった。
松山駅に到着し、路面電車で鉄砲町停留所に向かい、汗をかきながら歩き廻ってこの場所に至ることが出来た。
↓こういう看板を見つけて、墓地の中の石段のような場所を上がってロシア兵墓地へ至ったのだったが…

↓外周側の坂道を上がると、大きな看板も出ていたことに、立ち去る段になって気付いた…

↓ワシリー・ボイスマン大佐の胸像は、お年寄りや中学生等を含む御近所の皆さんが墓地の清掃等を続けていることに感銘を受けたロシアの人達が在って、ロシアの彫刻家が像を制作して1994(平成6)年に寄贈されて据えられたそうだ…

偶々、「汗をかいても乾き易い化繊のTシャツ」ということで、サッカーのロシア代表チームのレプリカユニフォームを身に着けていたが、「双頭の鷲」のエンブレムを胸に、<日露戦争>時代のロシア将兵の墓地を詣でた訳である…
近所に大学が在って、スポーツに勤しんでいる学生さんと見受けられる若い人達が辺りでジョギングをしている様子を視ながら、酷い汗をかきながら歩き廻った。水分補給をしようと眼に留まったコンビニに入って水を求めた際、店員さんが「凄い…汗ですね…」と少し笑っていた。
なかなかに興味深い訪問だった…
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