「休日」…:運行日誌(2020.08.07)

「何を…どうしたものか?」と、半ば途方に暮れるかのような境地で朝を迎えていた。苦笑いが洩れた…

客観的には「思い立って旅に出る」と称して、“避暑地”そのもののような地元を夏の盛りに飛び出してしまったという奇矯な行動の最中だ。「何を…どうしたものか?」と勝手に自問してみるが、「御随意に!」という以上でも以下でもない…

或いは…朝早くに「何を…どうしたものか?」と、何となく自問してしまうというのは、少し纏まった休暇の時間に、窓の景色の好さ故に気に入って何度も滞在して「別邸」とまで勝手に呼んでいる宿の居室で、「非常に満ち足りた気分」の中に在るということなのかもしれない。

マダマダ「訪ねてみたい…」は尽きないので、何処へなりとも訪ね歩くのも好いが…文字どおりに「“別邸”で寛ぐ」という感で、奈良で過ごすのも非常に好い…何れも好いので、いよいよ「何を…どうしたものか?」なのである。

こういうのは?「或る種の修行」というような営為で「至り着いた“境地”」とでも呼ぶべきモノなのか?そう思い、また別な苦笑が洩れる…

意味も無く、相当に古い歌の歌詞が頭の中を過るという場合が在るように思う…

「もしもあなたが♪一緒に居たら♪どんなに愉しい♪旅でしょう?♪」という歌詞が昨日辺りから頭の中を過っている。

或いは旅の時間を分かち合うような、素敵な同行者が在れば好いのかもしれないが…多分、私が1人で勝手にやっているような事は、他の誰にもやり悪いのかもしれないというようにも思う…

そう言えば「同行二人」という表現が在った…香川県に在った時に善通寺に至ったが、あそこで生まれたと伝わる弘法大師だが、仮令1人で歩いたにしても“お遍路さん”の心は常に弘法大師と共に在るというようなことが「同行二人」という表現の意図だったとうろ覚えながら記憶する。

不意に思い出した「同行二人」という表現だが、私は「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という句を拝借して表現したい、「訳もなく動いて、自身が生きている、生かされている喜びのようなモノを感じ、心弾まずには居られない」ということと、「訳もなく、無計画に動き回る…愚か者の所業かもしれないが、それが愚かな行為なら、自身は愚か者で大いに結構!」というようなことばかりを1人で想い続けている。

或いは、「見えることが無かった…」、「見えていて見過ごした…」、「見えていながら離れてしまった…」、「見えることなど在り得なかった…」という「同行者の幻影」のようなモノを勝手に追い掛け続けているのかもしれない…

様々な想いが渦巻いた朝…窓から望む気に入っている景色が「夏らしい!」という感の好天に包まれて行くのが判った中…「奈良でゆっくりする日」とすることに決めた…午前8時半頃から「ゆったり」とスタートだ…

結局…「若草山に(徒歩で!)上る」ということに挑戦し、途中で「無理は禁物…」ということにして…手向山八幡宮に寄って東大寺大仏殿周辺に至り、奈良女子大学の方向を徘徊し、「9年間だけ動いていた」という鉄道の記念碑を眺めて、適当にランチや珈琲を愉しんだということになった。本当に「この街に暮らしていて、ふと訪れた休日に何となく取る行動」というようなことに終始した…

今日は気温が35℃近くになっていたらしいが…歩き廻ってとんでもなく汗をかいたので、宿でゆっくりしながら、汗で汚れた衣類をコインランドリーで洗っていた…

その洗った衣類やら、何となく買い込んだモノ等を箱に詰め、稚内の拙宅へ発送しておいた…明日は?北上開始である…

振り返ると…今日は「歩いた」というだけで、列車やバス等には全く乗車しなかった…「稚内の拙宅に在る休日」と然程の差が無い…

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