↓奈良市内では比較的頻繁に見掛けるような案内看板だ…<奈良公園>が在る辺りは「街の公園」というのでもなく、寧ろ「公園の中の街」という風情さえ在ると思うのだが、こういう標識は実用的であると同時に見映えも好きだ…
↑右側の矢印…「若草山」と在る。そして「展望」を意味するピクトグラムが在る。
若草山は、古くは「三笠山」と呼ばれたそうで、「笠を3つ重ねたような段々の山」で、上れば奈良の街等の眺望が拡がる場所であるという。何度も奈良に寄っているが…実は上ってみたことが無かった。そういう場所に寄ってみようというのも、今般のテーマのように勝手に思っていたので、一寸歩いてみたのだ…
↓「入口は何処?」と進んで行けば…「おっちゃん!若草山かい?こっちや…」とばかりに、入口へ通じる辺りで鹿に出くわした。
↑「御案内、忝い!!」と鹿に軽く会釈で入口を目指して進んだ…
↓若草山は県で管理する公園のようになっていて、南北に設えられた登山道の出入口に管理事務所が在る。ここで150円を支払うことになっている…
↓辿り着いて、入ってみたのは「南」であったようだ。「登山道」と在るので進んでみる…
↓「これは!?」と些か驚いた…何やら古い城跡や、山深い地域の社寺のような様子を想い起させる…
↓「何段?」とか「何メートル?」というようなことは、どうでもよくなる…只管に石段だ…
↓斜面に半ばループ状になるように石段が延々と設えられていた…
↓「何処まで続くのだ!?」と大声で問いたくなる程度に石段は続く…「何処まで?」と問うても、上の少し開けた場所までであることは明らかなのだが…
↓夥しい汗で、やや辛くなってしまったが…漸く延々と続いた石段が途切れているように見える場所に至った…
↓「1段目頂上」という辺りに漸く至った…
↓大仏殿の鳥瞰だ…
↑古代の人達もこういう具合に、山から東大寺を望んだのだろうか?現在の大仏殿は、戦国時代に損なわれたモノが江戸時代に再建されているというモノなので、江戸時代の人達もあの建物をここから望んだであろうか?何か「佇むだけで時空を超える何かを想う」というような場所だ…
↓奈良の街と山並みの眺望が好かった…
↓こんな様子を眺め、暫くぼんやりとしてしまった…
結局…夥しい汗で消耗したので、「敢えて無理はすまい…」と趣がかなり異なった北側を経て下山したのだった…
今般、とりあえず場所は判った…何時か再訪したいものだ…
この記事へのコメント
ライカ
若草山へ登られていたんですね。それも夏に!
失礼ながら夏に登る人は少ないと思います。
灼熱を遮るものがほとんどありませんから…
しかし東大寺大仏殿の俯瞰画は頂上からは樹々に遮られて見えません。このように一段目が一番綺麗です。
昔から奈良の小学生の遠足と言えば「若草山」が定番です。
お送りした入江の写真集にも若草山を下から写したものがありますが、大勢の家族連れが写されていて時代の流れと当時のよそおいが観る者を昭和の世界に導いて来れます。
案内役の牡鹿、やせ細ってるのが気がかりです(笑)
Charlie
こんばんは!
若草山に上ってみた日は曇天で、陽射しは然程キツくはなかったのですが、何か酷く暑くて“一段目”に上って休んだ時点で下りました。確かに、自身の他に殆ど人は居ない感じで「夏はキツいから、敢えて上らず」というのが“普通”かもしれませんね…(苦笑)
ただ「眼下に東大寺や街並み」という意味では“一段目”でゆっくり眺めて愉しんだというのが正解だったということで安堵しました。実は「あの時、多少無理をしてでも上から視ておくべきだった??」という思いも多少残ったものですから。その「更に上…」は「何れ何時か…」ということにしたいと思います。
頂いた古い写真で<若草山山麓>を拝見しましたが、「そのままオフィスに出られそう?」な背広姿の人達も敷物を敷いて芝生に覆われた山で寛いでいる様を驚きながら見ました。(逆に、汚れて差支えが無いジーンズのようなモノを穿いているのでもないので敷物が登場するのでしょうか?)この若草山や大仏殿や興福寺五重塔というような「背が高いモノ」が、昭和20年代や昭和30年代には、現在視るよりも「遥かに目立った…」という感じが新鮮ですね。あの写真集はゆっくりと拝見したいと思います。
それにしても“御案内役”のように現れた鹿の他、写真は撮り損ねていますが、山の低い辺りで「数家族?」というような一群にも出会いました。あの若草山も鹿達のテリトリーという感でした。確かに“御案内役”の鹿は痩せ気味です。また寄った時に「何時かのおっちゃん?また来たのか?」と迎えてくれることを願います…