↓須磨寺にこういう場所が在る…
↑2人の騎馬武者の像が据えられた庭である。騎馬武者が身に着けている甲冑は、平安時代や鎌倉時代の様式のモノ―所謂「大鎧」という代物…時代が下ると、寧ろ神社に奉納するモノのような、儀礼的な用途で製作されるが、鎌倉時代頃までは騎乗するような身分、名の在る将が身に着けるのは「大鎧」であったようだ…―と見受けられる…
↓よく見れば「平敦盛」、「熊谷直実」という名札が2人の騎馬武者の足下に据えられていた…
↑平敦盛に熊谷直実?『平家物語』の世界だ…この庭は<源平の庭>と名付けられているという。
『平家物語』等で綴られる源平合戦であるが、重要な戦いの1つとされる<一ノ谷合戦>は現在の神戸市の域内、須磨の近隣も含む辺りで戦われたのだという。
「平家を討つ!」と源氏が挙兵して騒乱が始まった。源氏の攻勢により、京の周辺から平家の勢力が駆逐され始めた。
平家はその重要な“地盤”であった中国地方、四国、九州に退きながら軍勢の立て直しを図って逆襲を意図していた。そこに京に進駐した木曽義仲と他の諸将との内紛のような情勢が生じていた。その間隙に、平家は“遷都”を画策した福原が在る現在の神戸市の域内に進撃して軍勢を集め、源氏への逆襲の機会を狙った。
そうした情勢下、木曽義仲との内紛が片付いたことを受け、源氏は源範頼が率いる本隊と、かの源義経が率いる別動隊とで平家が布陣する地域へ進撃した。
そこに発生したのが<一ノ谷合戦>であった…そして<源平の庭>に在る、2人の騎馬武者の挿話だ…
熊谷直実は功に逸りながら勇戦していたが、平家側の戦線維持が困難と見受けられるような状況に及んで、少し沖の船へ逃れようと馬を走らせる武者に気付く。
「待たれよ!背を向けて逃げるか?卑怯な振る舞いではないか!待たれよ!」と熊谷直実は武者を追った。追われた武者は止まった。
「名を伺いたい!」と熊谷直実は武者に迫るが、武者は「名乗る程の名ではないが、我が首を打って手柄とされるが好かろう…」とし、従容として熊谷直実の手に掛かった。が、熊谷直実は複雑な心境になった。討ち取った武者は、自身の息子のような年恰好の者であったのだ。熊谷直実が討ち取ったのは、平清盛の甥であった平敦盛だった。
ディーテールは色々とバリエーションも在るようだが…こういうような挿話である…
↓この須磨寺に、その<一ノ谷合戦>で討たれてしまった平敦盛の首が葬られているというのだ…
事前に詳しく調べていたのでもなかったが、期せずして源平合戦の有名な挿話に所縁が在る場所に立寄ることとなった…
何処かを訪ねて、こういうような事に出くわすのは非常に面白いと思う…
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