【連載】現今事情―サハリン (5)

この「現今事情―サハリン」と称する連載は、「振り返ると随分な数の写真が溜った」という中、何十点か写真を選んで、例えば「○○という場所はこういう感じ…」と一頻り御話しをすることさえ出来てしまうかもしれないという思い付きが出発点になっている。そういう中で「ロシア/サハリン州」の記事(=写真)が相対的に多い中、「サハリンを巡る話題の提起?」と思い付いたことが始まりであった。

そうした「始まり」が在った中で、自身の中で酷く気に懸ったのは「サハリンってモノが在るの?」という問いである。何やら最近は、6月から9月頃の期間に関しては「ネクタイ着用は無用」というようなことになっているらしいが、この「サハリンってモノが在るの?」という問いに関しては「年中必要!!」ということにでもなっているらしく、極々近年、極最近に至っても、未だに「サハリン辺りの事情通…」ということになっている自身に向かって投げ掛けられる機会が実に多い。内心では呆れている…

「振り返ると随分な数の写真が溜った」という中、何十点か写真を選んで、例えば「○○という場所はこういう感じ…」と一頻り御話しも出来るかもしれないという程度に思いながら、少なくとも自身に向かって「サハリンってモノが在るの?」という問いだけは、「断じて発っして頂きたくない!!」という主張をしたいというような気がした。その種の問いを「当たり前」と感じる人達が在るのであれば、「当たり前としていることは極めて異常!!心情的には許せん!!!」という主張が在っても悪くはない筈だ。

ハッキリ言って、様々な状況を見る限り「サハリンってモノが在るの?」という問いは「愚問の体裁を成さない程度に愚かしい愚問」というように思えてならず、「ハッキリ言えば、稚内を含む日本国内の小さな街の方が、余程モノが無い事を判っているか!??」という不愉快極まりないモノが込み上げる事を禁じ得ない。

そういう「やや尖り過ぎ?」な要素が入り込んだ中、「サハリンってモノが在るの?」という問いを発するような人達に向かって、「これでもそんなことを真面目な顔で問うのか?!?!」という、酷く尖った調子でこれまでの稿を綴っていたかもしれない。

が、そんなに「尖り過ぎ?」なことを思って如何なるのでもない。

↓こういう程度の考え方が好いであろうか?
04-10-2018 vol02
↑「幸せはお買求め頂けませんが、1杯の珈琲はお求め頂けます」と在る。ユジノサハリンスク市内の珈琲スタンドで見付けて、気に入ったので写真に収めた。

誰でも随意に気に入っている美味い珈琲を求めて、少しばかり好い気分で愉しむという、そんな程度のことは出来る。ユジノサハリンスクはそういう場所であることは明らかだ。

美味い珈琲でも時々啜って歩き廻ることが愉しいというような街は、何処であろうと居心地は悪くないと思う。

ユジノサハリンスクという街は、地形の関係で南北に細長く市街が拡がっている。そういう事情なので、西側に在るユジノサハリンスクの鉄道駅を図の下、東側のスキー場も在る山が視える辺りは図の上となるような横長の案内地図が多いと思う。

その案内図の故に、「図の下側」から「図の上側」へ動くと「南北の移動」と錯覚する。が実際は「西から東への移動」だ。

現在のユジノサハリンスクの市街は、20世紀初めに「豊原」として建設整備された市街を下敷きにしている。その「豊原」の市街は、主要道路を境界のようにして、市域を東西南北に仕切っていた。

東西の仕切りになるのが現在のレーニン通だ。鉄道駅の在る側が西で、反対側の山が視える側が東だ。

↓こういう具合に巨大なレーニン像が在る広場が設えられ、奥に鉄道駅が視える。この広場を擁する、街の南北を貫く道路がレーニン通だ。
18-09-2018 in evening (50)
↑広場の近隣にユジノサハリンスク市行政府の本庁舎も見受けられる。

このレーニン像が視える辺りから少しばかり北上するとサハリンスカヤ通と交差する。このサハリンスカヤ通が、「豊原」の時代に街の南北の仕切りになっていた。サハリンスカヤ通の奥が北で、手前が南であることになる。

このサハリンスカヤ通の西寄り、鉄道の線路も視えるような側に広場が設えられている。

↓広場にこんな胸像も据えられている。
10-09-2017 (10)
↑これを視て、アニメの『銀河英雄伝説』に登場する“帝国軍”の指揮官級の劇中人物達を思い出してしまったが、昔の海軍軍人の胸像である。(あのアニメの世界は、欧州諸国の昔の海軍を意識したようなデザインの服装を敢えてしているので、こういう「帝政ロシアの海軍士官の軍服」というイメージと重なる部分が在ると思うが…)

胸像の人物はワシ―リー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニーン(1776-1831)である。

ゴロヴニーンは、<ディアナ>号という船で、更に後年は<カムチャッカ>号という船で世界周航を複数回成功させている指揮官としてロシアでは知られている。そして日本でも<ゴローニン事件>と呼び習わされる、箱館を拠点にしていた商人の高田屋嘉兵衛が絡まる事件の当事者として少し知られている。

この広場には、ゴロヴニーンの伝記的な情報や、彼が指揮を執った<カムチャッカ>号を紹介するパネルも据えられている。(ロシア語の説明文が在る…)そこに、<ゴローニン事件>の詳述はされていないが、日本の幕吏に捕えられてしまい、2年近く日本に抑留されてしまったことと、その時の経験や見聞を綴った『日本幽囚記』がよく知られていることは紹介されていた。

実はこの胸像を視たことが切っ掛けで淡路島を訪ねてみたということも在った。

淡路島は、<ゴローニン事件>の「日本側当事者」ということになる高田屋嘉兵衛の故郷である。故郷の村に近い辺りに整備された公園の一隅に<高田屋嘉兵衛顕彰館>という資料館が設けられている。そこを訪ねた。

淡路島を訪ねてみた際には、ユジノサハリンスクからウラジオストクへ飛んで、飛行機を乗換えて成田空港に着き、そのままJRの特急と東海道新幹線を乗り継いで新大阪駅に出て、そこからJRの新快速で神戸の三ノ宮駅に到り、辺りの宿を求めた。そして三宮地区からバスを利用して淡路島を往復したのだ。

↓これは淡路島で撮っている画だ。
Goshiki on Awaji Island on 23-02-2018 (6)
↑「時代劇?」という右側の人物は、淡路島が産んだ「実業家」とでも呼びたい活躍を見せた高田屋嘉兵衛だ。左側の外国人はロシアの海軍士官であったワシ―リー・ゴロヴニーンである。

1811年…ロシアとの摩擦の経過故に、ロシア人に警戒していた幕府にゴロヴニーンが捕えられてしまう。対してゴロヴニーンの部下だったリコルドは、日本側の高田屋嘉兵衛を捕えた。高田屋嘉兵衛はゴロヴニーンの解放を当局と掛け合うことを約して解放され、約束を果たしてゴロヴニーンを解放させた。 そんな故事に因んだ像である。高田屋嘉兵衛とゴロヴニーンは、実際には直接会って語らったということでもないようだが、一件の双方の主役が仲良く並んだ像だ。ロシアの彫刻家の作品であるという。

事件は、幕府が「ロシアとの摩擦の経過故に、ロシア人に警戒」ということで生じている。その、幕府がロシアを警戒する契機となった事件に少しばかり関係が在る人物について、このユジノサハリンスクのサハリンスカヤ通で知ることが出来る。

↓ゴロヴニーンの胸像が在る辺りからレーニン通を渡って、サハリンスカヤ通を東へ進んで行くと、こういう胸像が据えられた広場も在る。
on 09SEP2017 (7)

これはアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルン(1770-1846)の胸像だ。ロシアではイヴァン・フョードロヴィチ・クルゼンシュテールンとして知られており、ユジノサハリンスクの胸像にはそのイワン・フョードロヴィチの方で名が刻まれている。

クルーゼンシュテルンは、バルト海沿岸部のドイツ系、スウェーデン貴族の流れを汲む一族の出で、エストニアで産れた。長じて海軍軍人となり、探検家として知られるような事績も残している。殊に1803年から1806年の期間で、ロシアとしては初めて記録に残る世界周航を達成している。そして、その際に通過した日本海に関して"MER DU JAPON" と記録し、諸国に“日本海”の名を紹介した人物と考えられる。

1804年にロシアの使節であるニコライ・レザノフが長崎へ至り、日本との通商関係樹立を目指して交渉に臨もうとしたものの巧く事が運ばなかった経過が在った。その際の、レザノフが乗っていた船の指揮を執っていたのがクルーゼンシュテルンということになるようだ。

日本の幕府との話し合いが巧く行かなかったレザノフは憤慨していたということだが、それを「忖度…」した関係者が在った。そしてその者達は日本の人達が活動していた場所を襲撃―艦砲を撃ち込むようなこと…―をしている。

日本の側では「夷狄の襲来!?」というような緊張感が走った。幕府は奥州方面の大名家に命じて武士団を現在の北海道等へ派遣する措置を講じた経過も在った。そんな人達は現在の稚内市内の宗谷にも足跡を残している。そして一部はサハリンの南側、コルサコフ地区にも滞在していた。

そんな経過が在った少し後の1811年、測量活動の途次に飲料水の補給可能性を探ろうと千島列島の島に上陸を試みたゴロヴニーンが幕吏達の前に姿を現した。幕吏達は即座にゴロヴニーンを捕えてしまった。後に箱館に在ったゴロヴニーンは、自身が捕えられてしまう原因ともなった、少し前の事件に関して知ったようであるが。

ユジノサハリンスクが在るサハリンは、巨大な大陸の国であるロシアでは「島々の地域」という呼ばれ方もしている。そしてサハリンの人達自体も、自分たちの地域を「島々の地域」と称してもいる。そういう地域の地誌等が伝えられる経過で、知られている人物達に関して、街の広場に胸像を据えて伝えようとしている訳だ。それ自体、極めて普通であると思う。

更に、19世紀頃の「海が国々を結び付けるという方向性が強まった?」というようにも視える時代のことが、サハリンスカヤ通を少しばかり歩けば視えて来る一面も在る訳だ。

或いは、こういう「さり気ない街の様子」が「不幸な程度?」に知られていないかもしれない。そんな想いが募る場合も在る。

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