現在のユジノサハリンスクの街は、1946年にユジノサハリンスクと正式に命名されたようだが、それ以前は豊原だった。豊原として建設されて発展していた街が“ソ連化”されたということになる。
そういう事情だから、街の主要な街路は豊原の時代からユジノサハリンスクの時代になっても然程大きくは変わらない。と言って、豊原時代の地図を手にユジノサハリンスクを歩き廻るというのは些か不便であるとは思う。道路の拡幅や、些かの変更が積み重なっている例や、細かい道が消えてしまっている例は多いからだ。
豊原は南樺太の日本領化の後、1906年頃から建設が本格化した都市で、札幌の例に倣って碁盤の目のような街路を整備して街を築いた。豊原に関して「小札幌」と呼ばれという紹介を耳にする場合も在る。ということは?札幌は京都を参考にしているらしいので、札幌を参考にした豊原は?「京都の孫?」と思わないでもないが、こんな事は聞かない。
現在のユジノサハリンスクは1906年頃から、または1907年頃から建設の街を下敷きにしている。それを「街の歴史」の中で「トヨハラ時代」という程度に認識はされているようだが、それを「街の起こり」というようには考えていないようだ。
「街の起こり」というようなことは、年号を特定し悪い事柄なのかもしれないが、サハリンの各都市では特定の故事を引いて、その年号を「建都」ということにしている。そして毎年のように「建都〇〇〇年」という程度に謳って、<街の日>と称する文化行事を催している。<街の日>?毎年開催する街の祭のようなものだ。
↓ユジノサハリンスクにこういうモノが据えられた場所が在る。
↑レーニン通を少し北上し、サハリンスカヤ通と交差する辺りで西寄りに進む。歩けば20分前後、バスなら停留所が2つという辺りの場所だ。道路から近く、容易に見付かる。
↓貼り付けられたプレートに注目する。
↑「ここに1882年、ロシアの入植者がウラジミロフカという村落を起こし、ユジノサハリンスク市の礎となった」というような趣旨のことが書かれている。
これは、1882年に「ウラジミロフカ村」が起こったという経過を示す記念碑である。ユジノサハリンスクでは「1882年にウラジミロフカ村が起こった」という故事を捉えて「建都」としている。ということは?来る2022年には「建都140年」ということになるのであろう。
聞く限り、「ウラジミロフカ村」の中心的な場所というのは、レーニン通とサハリンスカヤ通の交差する辺りを通り越した、もう少し北寄りな辺りと考えられるようだ。この記念碑が在る場所―現在、「ウラジミロフカ」と呼び習わされている辺り―は、村内の農場の一部であった場所のようだという。史跡を示そうとすれば、色々な話しも出て来ようが、とりあえず現在のユジノサハリンスクで「街の起こり」と考えている「ウラジミロフカ村」のことを伝える場所というのは興味深い。
この「ウラジミロフカ村」の碑からサハリンスカヤ通を東側へ引揚げる。
ゴロヴニーンの胸像が据えられた広場の脇を抜ければ、賑やかなレーニン通に至る。
↓サハリンスカヤ通もレーニン通も車輛通行量は少なくないが、その交差する辺りに少し目立つ建物が在る。
↑<サハリン>と名付けられた古くからの百貨店だ。意外に美しい建物であると、視る都度に思う。「テナント方式の商業ビル」とでも考えると判り易いかもしれない。館内では区画が仕切られていて、様々な個店が入っている。因みに、地階に食堂が在って、ランチタイムには意外に多く利用した思い出も在る。(極直近の様子は承知していないが…)
この<サハリン>百貨店の、サハリンスカヤ通を挟んだ辺りに映画館の建物が在って、その直ぐ近く、「隣」のような辺りに広場が整備されている。
↓その広場にこういうモノが据えられている。
↑渋い感じの風貌の胸像はニコライ・ワシーリエヴィチ・ルダノフスキー(1819-1882)である。
ルダノフスキーという人物は、「ロシア海軍の功労者」とされるネヴェリスコイの下で、サハリン南部の現地調査を手掛け、詳細な記録を残したという人物だ。
ルダノフスキーは、現在のコルサコフ地区に拠点を築いて指揮を執っていたネヴェリスコイ麾下の士官だった経過が在り、1853年から1854年に主に南部サハリンの各地を踏査し、地図を作成し、詳しい報告を遺したことで、ロシアでは少し知られる人物である。
「サハリンの歴史」ということでは、「地域の最も古い記録の一つは、かのルダノフスキーの記録で…」という例が色々と在るらしい。実際、南西部のネベリスク地区では、この記録が残っている「ルダノフスキーの到達」という故事を“建都”と位置づけてさえいる。
ルダノフスキーがサハリン南部で調査活動をしていたような時期?かの川路聖謨がプチャーチン提督と交渉して日露国交が開かれたような時期に相当する。川路聖謨を主人公に、来航したプチャーチン一行との色々な出来事も描かれる『落日の宴』という小説が非常に面白いが。
サハリンスカヤ通には、海事史関係の人物の胸像が据えられた広場は4箇所在る。西からゴロヴニーン、ルダノフスキー、クルーゼンシュテルンということになる。
↓最も東側に4箇所目が在る。
これがゲンナージー・イワノヴィチ・ネヴェリスコイ(1813-1876)の胸像だ。
ネヴェリスコイは現在の沿海地方やハバロフスク地方、更にサハリンで活動拠点を築くことや地理的調査という活動を展開した。かのムラビヨフ総督の意向を受けての活動だった。
ムラビヨフ総督?皇帝が勅任する役職であった<東シベリア総督>を長く務めて活躍した人物だ。シベリア東部から極東、更にアラスカまでを管轄する行政官のトップで、有事には派遣される軍隊の司令官たり得る立場でもあり、特命事項として外交課題にも取り組むという要職だった。
このムラビヨフ総督は、清国との交渉でアムール川流域の領土を獲得した功績によって「アムールスキー伯爵」という称号を贈られたことから、「ムラビヨフ-アムールスキー」と呼ばれる場合も在る。ウラジオストクの港と街を整備するということに関しては、1860年にこのムラビヨフ総督が号令を掛けたと言われている。
序でながら…このムラビヨフ総督は来日した経過も在る。1859年に来日し、幕吏達との交渉でサハリンの領有権を認めさせようとしたが、父祖の代から日本人が足跡を残している樺太の権利を放棄するべきでもないと、幕府側がその主張を退けたという。
このムラビヨフ総督の意向を受けて活動していたネヴェリスコイは1853年、サハリンに拠点を築いた。現在のコルサコフ地区―ユジノサハリンスクの南側の隣に設けられている地区―に築かれた拠点は、総督の名に因んで「ムラビヨフスキー哨所」と命名された。上述のルダノフスキーは、ネヴェリスコイの指示を受けて、この「ムラビヨフスキー哨所」を起点に方々を巡ったことになる。
この「ムラビヨフスキー哨所」は、暫く活動した後、暫く休眠状態になってしまう。これは上述のプチャーチン提督と川路聖謨との日露国交の交渉にも「中断」という影響が及んだ事柄だが、所謂<クリミア戦争>によってロシアが英国と交戦に及んだというような事情が絡んだ。「英国と交戦」ということになれば、主要な戦線と縁が薄いような極東でも、英国艦船と出くわした場面で摩擦が生じる可能性が在るので、ロシア側は少し慎重になっていたのだった。
「ムラビヨフスキー哨所」は十数年を経て1867年頃に活動を再び活発化させたのだが、この頃にはムラビヨフ総督は退いていた。そういうことで改めて、当時のコルサコフ総督に因んで「コルサコフスキー哨所」と再命名した。そこから、辺りの通称が「コルサコフ」となった。「大泊」と呼ばれていた樺太時代を経て、“ソ連化”された際にこの古い通称の「コルサコフ」を復活させ、現在もコルサコフ地区と呼ばれている訳だ。
↓ユジノサハリンスクから南側へ40㎞程度も不意に動いてしまうが、コルサコフの街には、街の名の由来になったコルサコフ総督の胸像が在る。
このコルサコフ総督の胸像が在るコルサコフの街は、「ムラビヨフスキー哨所」が設けられたという故事、1853年を建都と位置付けている。そしてコルサコフでは「サハリンで最も古い街の一つ」という言い方もしている。(それよりも以前の時代の、色々な人達の足跡も在る訳ではあるが…)
↓序でながら、そのコルサコフには2013年に「建都160年記念」と称して新設されたネヴェリスコイの像も在る。
本稿を綴り始めた動機として、「サハリンってモノが在るの?」という問いに出くわすことが「面白くない!!」と思うということは在った。が、実は「サハリン」は「直ぐ近くであるにも拘らず、ロクに情報らしい情報が無い」という地域なのである。しかしながら、少しだけでも歩いてみれば、19世紀の北東アジアの様々な事項を想い起すような舞台であることに思い至る。そういうことを、街の一寸した広場の胸像等で普通に伝えようとしている様子も伺える。
こういうような「何となく街を歩き廻って出くわす地域の歴史」というような事柄は、存外に好いように自身では思う。こんな様に出くわすサハリンの街は「訪ねて愉しい!」と言い得るとも思う。
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