【連載】現今事情―サハリン (9)

何処の地域でも、或る程度名前が知られた文学者が足跡を残しているということになれば、その事績を伝える像や記念碑を設ける例が在ると思う。

サハリンもそういう例に漏れない。

↓ユジノサハリンスクのレーニン通に沿った場所、サハリン州の図書館や美術館が在る辺りが都市緑地として整備されている。その辺りに像が在る。
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↑「旅の途次」という風情の像である。ユジノサハリンスクに滞在すれば、通り過ぎる機会も多いかもしれないような場所である。

この像はアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(1860-1904)である。

チェーホフと言えば、晩年に近い時期の作品だが、『かもめ』、『ワーニャ伯父さん』、『三人姉妹』、『桜の園』の“四大戯曲”が殊に知られている。これらの戯曲は世界中の様々な言葉に翻訳もされ、また翻案されて現在でも各国で上演されている。日本国内の演劇関係分野もそういう例に漏れない。

チェーホフと言えば、そういう訳で“劇作家”として知られるのだが、文学の世界に登場した時には寧ろ小説家だった。大長篇という作品でもなく、中篇、短篇の作品で知られていた。

そのチェーホフが30歳であった1890年、チェーホフはサハリンを実際に訪ねている。

↓「高名な劇作家」となった晩年近くの肖像が知られるチェーホフだが「30歳頃のイメージ?」というレリーフも見受けられる。
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↑「チェーホフがやって来たサハリン」ということで、彼が綴った本や、チェーホフが訪ねた時代に関する展示が視られる資料館の前に設えられたモニュメントに、このレリーフが在る。

サハリンを訪ねたチェーホフは、当時のサハリンでの人々の暮らしぶりを詳細に調査し、自身の長い旅に関することを交えながら、或る種の“記録文学”という作品を綴った。『サハリン島』という作品だ。

↓サハリンでも何年間かの間隔でロシア語の本が出版されているようだが、日本国内でも『サハリン島』の翻訳は入手する等して読むことが出来る。
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チェーホフは3箇月間にも及ぶ長い旅を経て、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレから船でアレクサンドロフスク・サハリンスキーに渡った。そしてサハリンの北寄りな辺りで活動し、そこから船で南下して現在のコルサコフに至り、サハリンの南寄りな辺りで活動してから帰国した。

チェーホフがサハリンを訪れた1890年頃の状況?日本では「1905年から1945年の樺太時代」ということは少し知られているが、「その以前?」という一面も在るような気がする。

「第6回」で、幕末期に日露間の国交が開かれた時期というようなことにも言及した。サハリンに関しては日本領かロシア領かは明確に決まらずに時日が経過していた。1875年に至り、サンクトペテルブルグへ赴いた特命全権大使の榎本武揚がロシア側と折衝して<樺太・千島交換条約>が締結された。結果「樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有」ということになったのだった。

これを受けて、1875年以降、1905年までの時期はロシア領となったサハリンでロシア側の活動が展開されていた。1890年の「チェーホフが来訪して活動」という時期はこの時期に相当する。そしてその当時、サハリンは“流刑地”ということになっていた。

少し前に『熱源』という小説が少し話題になった。これはサハリンに在ったアイヌである“山辺安之助”ことヤヨマネクフ達が、サハリンのロシア領化を受けて北海道へ移り、移った北海道に拓いた村が疫病で壊滅的打撃を受けてしまい、またサハリンへ戻ってという経過が在って、そこにサハリンで活動してアイヌ等の少数民族の研究を行った元流刑囚のブロニスワフ・ピウスツキが関わるというような物語になっている。チェーホフの『サハリン島』に綴られた世界が、少し違う角度から見えるということになるかもしれない。

因みに、チェーホフのサハリン滞在の後半となるコルサコフに在った時期、「日本領事館」の近所の家に在って、日本人領事館員との交流も在ったと伝わる。色々と、仕事等で日本人が出入りしていた関係上、邦人保護等の必要性が在って、コルサコフに「領事館」が設けられていたのだ。

↓コルサコフにはその「日本領事館」の遺構が在る。(その場所は、現在ではロシア正教関係の施設が建っている。)
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↑コルサコフの地に、「誰しも名前位は知っているロシアの有名作家」が足跡を残していて、その当時に「隣国から来ていた人達と“善隣交流”」という、なかなかに興味深い史実が在る訳だ。

こういう具合に「サハリンに所縁のチェーホフ」ということになると、尽きない程に話題は在る。こうしたことに加えて、「著名な劇作家」たるチェーホフの戯曲に触れる機会もサハリンでは在る。

↓ロシアで演劇を上演する劇場については「有名作家の名を冠する」という例が見受けられる。サハリンに在っては<チェーホフセンター>という名の劇場がユジノサハリンスクに設けられている。
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「1905年から1945年の樺太時代」という時期、「ソ連のサハリン」の主要な街はチェーホフが上陸した経過も在るアレクサンドロフスク・サハリンスキーだった。そのアレクサンドロフスク・サハリンスキーで、演劇を上演する劇場が起こり、「南樺太のソ連化」という時代の後にユジノサハリンスクに劇場が移ったという理解になっている。

その劇場ではチェーホフの有名戯曲の上演も在る。

↓『桜の園』を観る機会を設けることが出来た。
my theatre ticket for 05-11-2017 (2)

サハリンも含め、ロシアで演劇を上演する「劇場」と言えば、「公演を行う劇団が活動している」ということになる。秋から春の“シーズン”の期間に、何本もの“レパートリー”を上演するのである。上記の『桜の園』は、その“シーズン”の期間の“レパートリー”の一つであったのだ。

ロシアで演劇を上演する「劇場」ということだが、ロシアでは少なくとも「“連邦構成体”の(少なくとも)中心的な街」には「間違いなく在る」という代物だ。“連邦構成体”というのは、ユジノサハリンスクが中心的な街となっているサハリン州も含めて85在るとされる。(クリミア半島の2つについて、国際的に認めない例も在るのだが、ロシア国内では数の中に入れている。)

少し前に、少し驚いたのだが、ロシア全土で「劇場マラソン」と称する取組が催された。これは沿海地方の中心的な街であるウラジオストクで始まり、ハバロフスク地方の中心的な街であるハバロフスク、そしてユジノサハリンスクへ“バトン”が回っていた。これはウラジオストクの劇場による公演をハバロフスクで、ハバロフスクの劇場による公演をユジノサハリンスクで、ユジノサハリンスクの劇場による公演をカムチャッカ地方のペトロパブロフスク・カムチャツキーで…というように「リレー」で85箇所を巡るというのである。

ユジノサハリンスクは人口20万人程度の街だ。日常的に往来が在る隣りの地区や周辺を含めて人口30万人台の都市圏だ。そういうような場所で、有名作家の事績が伝えられ、演劇のような文化活動も立派に行われている。「サハリンってモノが在るの?」という問いが発せられなければならない次元なのだろうか?少なくとも?演劇の上演も可能なホールは日本国内の地方都市に色々と在るとは思う。が、ユジノサハリンスクの劇場のように「常設劇団の活動」が盛んに行われているであろうか?そういう面ではサハリンの方が進んでいるのではないか?

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