【連載】現今事情―サハリン (10)

「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノが在ると思う。

これは例えば、「東京」とでも言えば煉瓦造の東京駅の建物を思い浮かべる、「大阪」とでも言えば大阪城が在る様子通天閣が在る様子を思い浮かべるというようなこと、逆に煉瓦造の東京駅の建物の画が出れば「東京」を思い浮かべる、大阪城が在る様子の画や通天閣が在る様子の画が出ると「大阪」を思い浮かべるという次元のことだ。

こういうことには「個人差」も非常に大きいというようには思う。各々に、テレビドラマや映画のようなモノまで含めて「視ているモノ」は異なり、経験や見聞が異なる以上、「知っているか?知らないか?」という事情や、同じモノに抱くイメージは異なるのだから、上述例のように「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」という具合にはならない場合が在ることは否定しない。が、上述例の「東京」や「大阪」は相当に高い割合の人が判ると思う。

不意にこんなことを思い出したのは「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というようなモノは「如何か?」というようなことを思ったからだ。

既にこの連載記事は9回綴っていて、サハリンの様子、その中心的な街であるユジノサハリンスクの様子を色々と論じてはいる。が、「ユジノサハリンスク」というのは、一般的には「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもないとも思う。

上述で例示した「東京」や「大阪」という程度であれば、相当高い割合で「街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視ると街の名前が思い浮かぶ」というようなモノが在ると思う。が、数多在る国内各地の街については必ずしもそうではないかもしれない。「それは何処?」とか「そういう名前の街が在るのか?」ということになる場合も少なくない筈だ。国内でそういうことなのだから、「知名度が低い外国の地方都市」という以上でも以下でもない「ユジノサハリンスク」は、「それは何処?」どころか「何?それ?」かもしれない。

それでも「ユジノサハリンスク」は、「市行政府の見解」としては1882年に現在の市域の一部に村が起こったとされる以来の歴史を有し、現在の中心的な市街の多くは1906年、1907年頃から建設が進められた「豊原」を基礎としていて、市域で20万人余りが居住し、日常的に往来が見受けられる範囲に居住する30万人余りの商圏を形成しながら在るのだ。自身はこのユジノサハリンスクを何度も訪ね、短期、中期と滞在する経験を重ねている。そんな中で「サハリンってモノが在るの?」という問いに出くわし、色々と論じてみたくなったのだった。

自身としては何度も訪ねて滞在しているユジノサハリンスクなので、「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノは在る。

↓自身としては、この「巨大…」な感じのレーニン像は「ユジノサハリンスクという街の名前を聞けば思い浮かぶ画」或いは「画を視るとユジノサハリンスクという街の名前が思い浮かぶ」というモノの一つである。
18-09-2018 afternoon (11)

銅像や大きなモニュメントが記憶に残るという場所は幾分在ると思っているが、こんなに「巨大…」な感じの銅像というのは、自身が視たことが在る範囲で類例が余り思い浮かばない。かなり以前に滞在した経過が在るモスクワで「大きな銅像」を色々と視た記憶が在るのだが、この「ユジノサハリンスクのレーニン」に比肩するモノは思い出し悪い。

↓ユジノサハリンスクの街に在れば、こんなような様子を見掛ける頻度は高いように思う。
18-09-2018 afternoon (3)

この像は9m程度の高さと言われる。色々と利用可能な広い都市緑地の一隅を占めて建っている像で、広めなレーニン通を挟んでユジノサハリンスク市行政府庁舎と向き合っている。そのユジノサハリンスク市行政府庁舎は地上4階(地階も在るが…)で、広場と道路の幅で少し離れているが、「巨大なレーニン像と庁舎が似たような高さ?」に見える。「地上4階」となれば、各階の天井を平均2.5m程度―一般オフィスの入っている階と、少し広い会議室が設えられている階とで天井の高さが少し違うかもしれない…―と思えば10m程度であり、外から庁舎を視る場合には屋根や基礎部分の高さが若干加わる感じになる。レーニン像もそれに近いと推測出来るのだ。

このレーニン像は1970年に登場したそうだ。レーニンは1870年生まれだ。「生誕100年」でレーニンを顕彰するという動きが在り、方々で銅像等が登場した。ロシアを含む旧ソ連の国々、そして社会主義政権の下に在った欧州諸国で銅像が見受けられた。

ユジノサハリンスクを初めて訪ねるという方の一部に「こんなモノが?在る?」と驚かれる方が見受けられる。

「発せられる問い」には「含意」が在るものであるとも思う。ユジノサハリンスクの巨大なレーニン像を視て「こんなモノが?在る?」と言う方に関しては、酷く大きいので単純に驚くということに加えて、「社会主義政権の国々の経過の中、その種の政権の象徴というようなレーニンが何故未だに?」という「含意」が在ることが明らかだ。

1991年12月に“ソ連”は旗を下してしまった。そこへ至るまで、1989年頃から旧ソ連諸国や社会主義政権の下に在った欧州諸国で、体制が変わる動きが在った。社会主義政権が“退場”を余儀なくされた中、政権の象徴という感のレーニン像が撤去という動きが在った。そしてそれが日本国内でも、写真やビデオも交えて随分と報じられた経過が在った。もう30年も前だが。

そういう「レーニン像が撤去」を記憶している方が存外に多く、「“ソ連”は旗を下してしまって、年月を重ねた中で、未だにレーニン像?」ということになるのだ。

1990年代の前半頃、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで、レーニンは「別段に用も無い?」という程度に考えられていたかも知れない。が、「レーニン像が撤去」を積極的に行っていたのは、「“ソ連”は止めた!!」という意識が高かった場所に限られるかもしれない。積極的に行っていなかった例も多いのだが、これはかなり単純な理由によると見受けられる。それは「レーニン像を撤去する費用を捻出することがままならなかった」ということに尽きてしまう可能性が高い。

“ソ連”という体制が存在した時代を「不当な時代」というように認識している人達が多数派を占めていると見受けられるような場所では、“ソ連”を「止めてしまった…」ということで「何処かへ消えろ!」とばかりに「レーニン像が撤去」だった。が、多くの地域では「何十年間も別段に邪魔になるでもない場所に在り続けた像で、撤去の大きな費用を使う余裕も無いのだから、放っておけ…」というようなことになったのであろう。

“ソ連”を「止めてしまった…」という後、1990年代の間は殊に「金が無い…」という話しばかりが聞こえて来たロシアだった。エリツィン政権からプーチン政権に交代して政治経済の体制が色々と整備され、「資源カード」を切って国庫も潤うような感じになり、「経済成長」という様相になって行くのは2000年代の半ば以降位と見受けられる。

そうやって“ソ連”を脱して“ロシア”という感じになって行くと、街の様々なモノ―道路、広場、公的施設を始めとする様々な建物、商業施設等々―が整備されて行く。そういう場面、例えば「広場を整備しよう!」というようなことになった時、「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」という話しになる場合も生じるようになる。撤去に要する費用も何とか出来るようになっているのである。

しかしながら、今度は「レーニン像…“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」とは「少し違う意味合い」の事柄が出て来るようになった。レーニン像の中、ユジノサハリンスクの「巨大…」なモノのような殊に目立つモノを中心に、幾つかのモノが「文化財指定」となったのである。

「巨大…」な感じのレーニン像の台座辺りに、サハリン州政府のエンブレムが入ったプレートが貼り付けられているのが見える。そのプレートには州政府の文化担当省が、レーニン像を「文化財」に指定した旨が刻まれている。像は「特定の時代の人々による営みを伝える」という性質を帯びていて、同時に「制作当時から伝わる優れた美術品」とも見做される訳だ。

ユジノサハリンスクの「巨大…」なレーニン像は、撤去の動きが在ったというようには聞かない。アレは撤去に相当な費用が要ることは疑い無く、そういうことに資金を投じるのであれば、他の事に資金を投下するということになるのであろう。

レーニン像はユジノサハリンスクに留まらず、サハリンの方々の街にも建てられた。ユジノサハリンスクのように「巨大…」ではないのだが、「この街にも在った…」と何となく驚く程度に方々に在る。

↓アレクサンドロフスク・サハリンスキー…
Alexandrovsk-Sakhalinsky 23-09-2017 vol01 (37)

↓ティモフスコエ…
Tymovskoe 24-09-2017 (6)

↓ドリンスク…
Dolinsk on 13-05-2017 (1)

↓コルサコフ…
at Korsakov on MAY 08, 2017 (4)

↓ネべリスク…
12-10-2017 (1)

レーニン像に注目して大きく写るように撮った画も、その限りでもない画も交っているが、とりあえず自身で撮った写真の中で眼に留めた「サハリン各地のレーニン像」である。写真に撮っていなかった、または保存しているモノの中から直ぐに出て来なかった例も幾分在る。そして自身が知らない例も在るであろう。各地のレーニン像は、色々な姿でレーニンが表現されているのが少し面白い。ティモフスコエのレーニン像は着帽姿だが「あの街は冬に殊に寒いから…」という冗談を聞いたような気もする。何やら「レーニン像巡りスタンプラリー」という程のことでも出来てしまいそうな程、方々に在って驚く。

これらの中、ネべリスクの街に在るレーニン像に関しては、撤去の動きが在ったようだ。現在地から撤去の場合、他所に移設するということにもなったのかもしれないが。

ネべリスクは、樺太時代に本斗と呼ばれていた、サハリンの南西部の日本海側に在る。この街では2007年に「直下型地震」という災害が在って、大きな被害が発生してしまっていた。そこで新しい公共施設等が順次整えられていた。

ネべリスクでの、地震災害からの復興は何次かに分けて順次建設事業を進めていたようだった。街の中心部、地区行政府庁舎、文化センター、嘗ての行政府庁舎を転用した郷土博物館が見受けられる辺りの広場を整備するということになった。広場の整備構想の中、レーニンのような「“政治的”な銅像」は「住民や来訪者が憩う街の広場」という場所に「要るか?」ということになり「要らないよな…」という観方が多数派を占めたという。レーニン像が在った辺りに噴水を設えるというような「整備計画完成予想図」まで作成されたらしい。しかし、「あの像は“文化財”的な意味合いが在るものである。そういうモノは、可能であるならば、本来据えられていた場所に残すべきでは?」という話しが出て来た。結果、ネべリスクの整備工事が終わって登場した新しい広場には、建立当初から変わらない位置にレーニン像が在り続けている。

何やら「レーニン像尽くし」というようになってはしまった。が、サハリンに関して「こんな観方も?」というようなことを思う。レーニン像の多くが登場した1970年辺りは、既に「半世紀前」である。レーニン像が「“旧時代”のモノだ。要るか?要らないよな…」と「話し」は在っても「資金を要し過ぎる故…」と見受けられる理由で何となく残ってしまったという1991年頃も既に「30年前」だ。

サハリンの都市もまた、「何十年かの変化が観られるような、普通の都市」なのである。

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