文字数が嵩み過ぎる備忘録…:「一寸、出掛けることにした」という「たった一言」の「裏側」…!?(2021.10.25)

「訪ねてみたい場所は?」とか「何処を訪ねてみたいか?」とでも尋ねられると、多分回答に窮してしまうと思う。

例えば、住んでいる地域以外の場所へ出向くようなことを想定していないような状況下で「訪ねてみたい場所は?」とか「何処を訪ねてみたいか?」とでも尋ねられるなら、回答が見当たり悪いことであろう。が、自身の場合はそうではない。「逆」なのだ。

「訪ねてみたい…」とか「立ち寄りたい…」というような場所に関しては、所謂「名所旧跡」から或る程度知られた「絶景」の見える場所、興味深そうな資料が展示されている博物館系統の場所、美しい車輌が行き交っている鉄道路線や街並みの趣が好さそうな場所、何やら雰囲気が好さそうなカフェに至るまで、本当に「際限無く」存在する。ここで挙げ始めると、明後日位まで掛かっても終わらないかもしれない程だ。訪ねてみたい場所に関する「頭の中のリスト」というようなモノは、大都市圏に見受けられた分厚過ぎる電話帳や、百科事典や大型の辞典というような感じ、更に「何処かの古く大きな図書館のような場所に在るような、巨大な書架から溢れそうになっている夥しい数の本」という程度になってしまっていると思う。

自身が住む街は、様々な地域との間を結ぶ「交通結節点」とでも呼ぶべき場所から「大きく外れて…」という状況であることは否定し難い。故に「何処かへ…」ということにでもなれば、自身が住む街と「交通結節点」とでも呼ぶべき場所との往復が在って、その往路と復路との間に「交通結節点」とでも呼ぶべき場所を「半ば出発点」とするような「もう一つの往復」が生じるかのような感となる。そういう訳で、何時の間にか「何処かへ出る」という場合に「実質的に一気に2往復している…」という感覚を何処かに抱くようになってしまっているかもしれない。

「実質的に一気に2往復している…」という状況の故に、「何処かへ出る」という時間が設けられそうな場合には「量的に目一杯!」を画策する。そして時間を設けてみると、何やら「細々した計画は敢えて設けず、全く随意に方々を巡る」という発想になる。

「細々した計画は敢えて設けず、全く随意に方々を巡る」という発想で動くのは「交通結節点」に至った以降ということになる。「交通結節点」を「実質的な起点」にして、そこと他地域とを往復する大枠を考え、それの前後に自身が住む街との往復を加味するという調子なのだ。

2021年を振り返ると、「何処かへ出る」と「量的に目一杯!」や「それに準じる…」という程度の時間を設けられずに居たように思う。

所用で札幌へ出なければならない機会が何度か在り、その所用の前後の「隙間」、または「敢えて設けた“ゆとり”」という中で、旭川美瑛小樽に立寄るというようなことは在った。そういうような中でも「訪ねてみたい…」、「立寄りたい…」が思い浮かぶので、思いに抗わずに動いているに過ぎないのだが。

また2021年に関しては利尻島礼文島へ上陸という機会を設けることが叶った。これは「やや特別?」という感もする。利尻島については、思い立っての一度目の後、何となく二度目まで在ったのだから。

こういうような感じで「振り返る2021年」が「残り少ない?」という時期に至ってみると、「何処となく感じる物足りなさ…」というようなモノが溢れるような気がしてしまう。そこで「量的に目一杯!」な「何処かへ出る」という時間を設けてみようと画策する。

「画策する」と言って、然程大袈裟なことでもない。「この時季なら?この程度の時間を設けられる?」と一寸考えて、当該時期が或る程度近付いた時点で、時間を設けることを確定してみるだけのことだ。

「確定してみた」という時点以降は更に簡単だ。既述のように「実質的に一気に2往復している…」という状況である。住んでいる街と「交通結節点」との往復の段取り、「交通結節点」と「訪ねたい地域等の交通結節点」との往復の段取りを考えるだけのことだ。

この「“2往復”の出入口」を思い描いて決めた後には、「細々した計画は敢えて設けず、全く随意に方々を巡る」という発想で方々を巡ることに思い巡らすということになる。

「細々した計画は敢えて設けず、全く随意に方々を巡る」と言っても、巡るためには物理的移動手段と要する時間は必要だ。そういう移動手段等を調べるというのも、実に愉しい過程というものである。それは非常に好いのだが、色々と考える中で「移動だけ…」というような感じ、「只管に列車に乗って走り続けている」というような感じでは、自身の興味関心は満たされない面も在る。故に「○○へ着いて、△△を訪ね…」というようなことも思い描く。

そんなことを思い描き、何度も色々と考えている中で少し考えに詰まってしまう。「何処かへ出る」と「量的に目一杯!」な時間を設けるにしても、自ずと「限り…」というモノは在る。そういうことで「あちら…こちら…そちら…」と思い描いている中で「物理的にそららの全てを一度に訪ねて巡ってみるというのも??」という所に考えが至らざるを得なくなる。

自身はスポーツ観戦も好むのだが、例えばバスケットボールの試合を観るようなことを好む。「1点でも多く!」と制限時間一杯に加点することを競うというのがバスケットボールだ。加点を競い続け、制限時間が終わった時点で同点であれば?試合の運営の関係で規定の例が幾つか在るようだが、大概は「延長戦」を行う。不意にこういう例を思い出した。自身もその「延長戦」を導入すれば善い筈だ。

「何処かへ出る」と「量的に目一杯!」な時間を設けたとして、「あちら…こちら…そちら…」と思い描いている中で「物理的にそららの全てを一度に訪ねて巡ってみるというのも??」という所に考えが至ってしまったのであれば?「延長戦」を設定すれば、或る程度はその「問題?」を解決し得る筈だ。

現在時点で「何処かへ出る」と「量的に目一杯!」や「それに準じる…」という程度の時間を設けようと画策中ではある。これはこれとして、全く別に、「量的に目一杯!」や「それに準じる…」という程ではなくても構わないので、「何処かへ出る」ということも出来る時間を、「延長戦」的なモノを設定する訳だ。

「量的に目一杯!」や「それに準じる…」という程でもない「延長戦」的なモノとでも称するべき時間?「限られた時間」という感が強まらざるを得ない。とすれば?「的」を或る程度確り定めて、そこに向かって行って、そこから折り返す段取りを事前に相当程度定めておかなければならないであろう。

今般「延長戦」的なモノを設けようと思い立ったのは、或る程度強めな「想い」というようなモノ、「あそこへ寄りたい!!」、「ここを訪ねたい!!」という感じの強い場所が色々と頭の中に浮かんで、それが「整理困難?」だと思ったからだ。「整理困難?」ということであれば、「一部を“延長戦”に送り込む」というようにすれば善い筈だ。

「何処かへ出る」ということに関しては「こういう具合に出掛けて…こうして…ああして…」と計画を練るようなことが、「実際に出る」のと同じ程度に愉しい場合も在るのかもしれない。実は今、そういう状態で色々と考えている。内容?何れ整頓して綴ることとする。

申し上げたいことは「一寸、出掛けることにした」という「たった一言」だ。少しだけ“間”は在るのだが、「限られた時間」という感で一寸出るので、色々と考えて「想い」というようなモノを遂げることが叶えば非常に好いと思う。

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