河内長野は、大阪府の南東側に在って、少し先は和歌山県との境界のような場所だ。「河内の山中」というようなイメージの場所かもしれない。
この河内長野を訪ねるとすれば、近鉄の大阪阿部野橋駅から古市駅へ出て、そこから延びる線が行き着く先で、大阪阿部野橋駅との間を真直ぐ往来する列車も利用出来る。他、南海なんば駅を発着する高野線の列車が行き交っている駅の在る。近鉄の駅と南海の駅は隣接で、半ば同じ建物で結ばれているような様子であった。列車が発着する軌道も並んでいて、南海の列車で通り過ぎた際「向こうに近鉄の車輛が停車…」という様子を視ていた。
と、河内長野駅の話題から始めたが、率直に申し上げて「敢えて訪ねる」という意図が無ければ、大阪に縁薄い他地域の者が河内長野に立寄るという機会は少ないような気がする。実は南海の列車で高野山を訪ねた経過の中、「沿線の興味深そうな場所?」と河内長野に眼を向けてみた経過が在った。そして実際に立寄ってみようかという段になり、南海の列車ではなく、近鉄の列車を利用した。そして河内長野では南海バスを利用したのだが。
河内長野には、多少手間を掛けてでも立寄る値が在ると思われる名刹が在る。天野山金剛寺だ。
大阪の街中から河内長野駅へ至るのは容易い。列車の運行頻度も酷く少ない訳ではない。普通に何も考えずに駅に足を運んで、何となく乗車可能な程度である。が、河内長野駅前からのバスは運行頻度が低い。1時間に1本か、それより少ない場合も在る。金剛寺の傍の<天野山>という停留所を通る路線の運行は、土曜日や休日の方が、少し頻度が高いかもしれない。
↓河内長野駅前でやや長めにバスを待って、辿り着いた天野山金剛寺の門だ…一寸見入ってしまう見事なモノだった。
↓寺号が額に記されている…
天平年間(729年―749年)に聖武天皇の勅願で行基が開いた寺で、空海が修行した経過も在ると伝えられる。とにかく古い古い経過を有する寺である。平安時代の末期には高野山の高僧であった阿観(あかん)が住んで、後白河上皇や八条院というような有力者の帰依も受けるようになったという。
そして数多の塔頭を擁する寺として鎌倉時代にも栄え、鎌倉時代末期に至ると、河内国の真言宗系寺院と親しくしていたという後醍醐天皇とも関係が深くなっていて、南北朝時代には河内国で活動した南朝陣営の拠点のようにもなったようだ。そして南北朝の争いの渦中には入ったものの、室町時代にも寺は栄えた。江戸時代にも大名の支援を受けた伽藍の整備等は見受けられた。
明治時代に廃仏毀釈の故も在って退潮はしたが、戦禍に遭うようなことが少なく、貴重な文化財が多く伝えられている場所として「知る人ぞ知る」という存在であるそうだ。
↓本尊の金剛界大日如来坐像が祀られる金堂だ。
↑大日如来の脇には不動明王と降三世明王(ごうざんぜみょうおう)が据えられている。これが「大迫力!」で見入ってしまう。この3体が並んで鎮座するというのは類例が無いものでもあるらしい。
↓かの豊臣秀頼が大修理をしたという金堂が現在に伝わっているようだが、その金堂から辺りを視るという感じも素敵だと思った。
↑多宝塔が視えている感じが気に入った。
↓現存する多宝塔としては「最も古い?」とも見受けられるらしい。平安時代末期のモノということだが、金堂と併せて豊臣秀頼の修理の手が入っているという。
↓最近、この多宝塔と呼ばれる形式の塔が好いと思うようになった…
こうしたモノの他、織田信長、羽柴秀吉、徳川家康というような「教科書に在った昔の人の名前」として誰でも知っていそうな人物の署名や押印が施された書状というような貴重なモノの展示も在る。この寺は、有力者の帰依も受けて栄え、女性の参拝を拒んだ高野山金剛峰寺に対して、女性も迎えたことから「女人高野」と呼ばれた幾つかの寺にこの天野山金剛寺も数えられている。そういう経過に加え、「僧房酒」と呼ばれるが、寺で酒造を行って販売して活動を継続する糧としていた経過が在るのだが、この寺で醸していたという<天野酒>はなかなかに知られて好評を博していたらしい。そういう事業で用いたらしい大きな甕等も展示されていた。
↓貴重な展示が視られる場所の辺りにこういうモノも在って頬が緩んだ…
或る程度限られた時間を食み出すかもしれない程度に見所が満載な場所だった。過ぎる程に静かな冬の好天な日に、ゆったりとここを訪ねられたのは善かった…
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