大仏殿を振り出しに、三昧堂(四月堂)、法華堂(三月堂)、二月堂の各堂を巡り、鐘楼にも立寄ってから南大門を望むような辺りの東大寺ミュージアムに至った。
↓東大寺ミュージアム前にはこういうモノが在る。記念撮影をしようという人達に人気が高いようだが、あの大仏様の両手を実寸大で再現したモノであるという。掌と最も長い中指を合わせると3.3メートルも在るのだという。大きい…
↑掌が上を向いている左手は「与願印」(よがんいん)と呼ばれ、「人の願いを叶える」ということを表すそうだ。掌を前に示すようにする右手は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれ、「畏れることなど何も無い」ということを表すそうだ。
要は「畏れずに佛を敬う者の願いは叶うであろう」というようなことが、この大仏が体現するものなのだろうか?暫しこれに見入っていた…
これを視ていて思い出したのは、児童向けにアレンジしたような本で小学生位の頃に読んだ『西遊記』の最初の方に出て来る孫悟空の挿話だ。
孫悟空は全知全能の存在になったと、何でも出来てしまうと思っていた。御釈迦様と出会い、自身の力を見せてやると筋斗雲で雲上の世界を飛び廻る。やがて大きな柱のようなモノを見付けて、そこに自身が到達した旨を大書し、そして御釈迦様の所へ引揚げ、得意気にそれを報告した。御釈迦様は手を示して「これのことかね?」と質す。孫悟空は驚愕する。御釈迦様の中指に、孫悟空が書いた文字が在ったのだ。思い上がって御釈迦様の周囲ではしゃいで見せただけだったという訳だ。
↓この右手を視て、上述の挿話を思い出した。
或いは、細やかな到達を必要以上に吹聴する、実は何を成したという程でも無いものを大いに何かをやったかのように吹聴する、「本当かね?」とでも問う者が現れれば「黙れ下郎!」という調子…こういうのが必要以上に幅を利かせている面が、何となく在るような…不意にそんな気もしたのだった。
大仏様に縋るか否かは如何でも構わないと思うが、何物をも必要以上に畏れず、「人の願いの多くは叶う筈である」と確り前を視ていれば、より好い人生は開けて行くのではないか?そんなことを想いたい昨今でもある…歳末の夜遅く、敢えて綴ってみたかった事柄である。
この記事へのコメント