が、裏側から中に入り込んだというような感だったので、改めて正面に一寸廻った。
↓これが正面の出入口である。

↓この標石は18世紀末、寛政年間のモノと伝えられているという。

↑この寺は、建物が損なわれて何度も立て直されていて、往古の威容も現在では感じられないのだが、1400年間以上も場所が動いていない大佛が非常に知られている。230年程前の寛政年間に在っても、この大佛は知られていたということなのであろう。
↓大佛が収められている建物の屋根である…

拝観料を収めて大佛が在る建物に入ろうとした際、カメラを提げていたということも在ったが、窓口の方は「大佛の写真は撮って頂いて構いません」と仰った。こちらから申し出たのでもなく、そういう話しで「少し珍しい」と思った。「では大佛様の御尊顔を拝し、御姿を写真に収めて…」と思いながら入った。
↓色々な角度からゆっくりと、写真も撮りながら大佛を拝見した。釈迦如来像ということである。

↑面長な顔で、鼻が高い感じの顔だ。世界史の教科書に在った、遠い国々の仏教美術を想起させる。「“仏像”なるモノ?」が伝わって、それ程の時日が経ったということでもない時代の作だ。遠い国で造られていたモノのイメージが色濃く反映されているのかもしれない。
↓この大佛も奈良の大仏と同じ手の形になっている。

↑奈良で読んだ説明を思い出す…掌が上を向いている左手は「与願印」(よがんいん)と呼ばれ、「人の願いを叶える」ということを表すそうだ。掌を前に示すようにする右手は「施無畏印」(せむいいん)と呼ばれ、「畏れることなど何も無い」ということを表すそうだ。「畏れずに佛を敬う者の願いは叶うであろう」というようなことになるのであろうか?
↓傷んだ箇所を補修したように視える箇所や、頭髪部分の一部が少々傷んだように視える気もするのだが、それでもこの大佛は1400年以上も場所を動いていないのだという。

↓かの聖徳太子が存命であった時代に既に鎮座していた大佛である。その時代から1400年程にもなる時代にこうして大佛と我々が向き合っていることになるが、或いは「聖徳太子が眼にしていた様子」を追体験していることになるかもしれない。

寛政年間のモノという標石が好いので、敢えて「大佛」と表記してみたのだが…この大佛との対面は好かった!現場では、何か「大胆にも大佛様にモデルを御願いして撮影会…」という雰囲気も無くはなかったかもしれないが…
↓辺りに光が降り注ぐような様子も見受けられたということが忘れ難い飛鳥寺である…

今般はドライブに御誘い頂き、やや訪ね悪い場所も連なる明日香村を訪ねてみるということになった。そして方々廻ったが、何か少し親しんで、繰り返し寄っていた奈良県を「もう少々掘り下げてみた」というような経験だったと思う。
この記事へのコメント
ライカ
とても感慨深いものがありました。
仏様の写真を撮ってもいいとは確かに珍しいですね。
自身のカメラに収めて身近に感じてもらいたいと
いう配慮ですかね? 心が広いお寺ですね。
飛鳥寺は「明日香」では無く「飛鳥」と書きますね?
これは何故か私も知りません。
まっここまでお連れ出来た事はとても良かったです。
Charlie
飛鳥大佛を訪ねた際の「写真を撮って頂いても構いませんから」は多少驚きましたが、結局は少し独特な風貌の大佛をより一層記憶に留め、そして親しんで頂こうという意図なのかもしれませんね。御蔭で強く記憶に残りました。
現在の明日香村は3つの村が合併して成立していて、3つの中の1つが飛鳥村と言って、被らないように明日香村としたと聞きました。加えて、古くは“あすか”または“アスカ”と漠然と呼ばれていて、「明日香」の漢字が用いられるようになり、後に「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞を冠した言い方が登場し、枕詞の「飛ぶ鳥」を取って「飛鳥」という書き方がされるようになったというようなことも聞きました。
明日香村…何か不思議な印象を与えてくれましたが、地名そのものが不思議かもしれませんね。