「朝の時点で街に在って、ゆっくりと訪ねてみる」という程度のことをして訪ねる形が好さそうというように思う場所というモノが在ると思う。
神護寺はそういうようなことを思った場所だった。京都の街中というような感じの辺りから、路線バスで片道40分間程度(道路の混雑の情況等によって更に時間を要する場合も在ると思われる…)を要する場所に所在し、山がちな場所を歩き廻ることになる。朝一番で訪ねて、一頻り観た後、ゆっくりと街の側へ戻るという程度が好さそうだと思った訳で、実際にそういうようにして訪ねた。
この日の朝、高雄山には雪が見受けられ、観る機会が然程多くもないかもしれない景色を眺めながら神護寺を目指した。
↓降雪が些か交り、高い場所も低い場所も些かの積雪で、足元が雪で湿っている中、少し慎重な足取りで境内を歩き廻ってみたのだった…
京都の古寺の例に洩れず、神護寺もまた様々な建物が建ち、損なわれて再建されてということが繰り返された場所だ。
↓金堂は昭和期に入った頃の建物であるというが、本尊の薬師如来立像等、立派な仏像が収められている。
神護寺は古くは寧ろ高雄山寺と呼ばれた。奈良時代末期から平安時代初期の官人として知られる和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物が在る。この人物が和気一族の私的な寺として起こしたのが高雄山寺の基礎となっているのだという。
かの最澄が唐から帰国した後、最澄は「密教の第一人者」ということになった。そしてこの高雄山寺を活動拠点の一つとしていた。
少し後に空海が唐から帰国する。最澄以上に密教を深く学び、師匠から故国に密教を広めるようにと嘱望された空海である。この空海は高雄山寺を活動拠点とし、密教の重要な儀式である「灌頂」(かんじょう)という事も営んでいた。
↓空海がその「灌頂」のようなことをする際、閼伽 (あか)と呼ばれた水を汲んだ井戸であると伝わる場所も在った。
↓五大堂や毘沙門堂が並ぶが、屋根が積雪に覆われている風情が好かった…
↓金堂の裏側を少し高い辺りから眺めてみたが、雪と相俟って感じが面白いと思った…
↓多宝塔も佇んでいた…
↓何か「あの空海が在った場所…」という空気感のようなモノを感じながら、雪交じりな中を動き回っていた…
↓大師堂は空海の住んだ坊と伝わる建物の様子を再現したという堂で、弘法大師空海が祀られている場となっているのだという…
↓何か「空海が生きた時代」が眼前に揺らぐかのような、不思議な感じもした。
雪が見受けられた高雄山にバスで到着し、「谷を下ってから反対側に上る」というような経路を慎重に歩いてこの神護寺を訪ねることが叶った。雪は歩き悪かったが、他方でこの「空海の時代」を伝えてくれるような空間を見事に彩っていたと思う。
神護寺は高野山真言宗の寺だが「遺迹本山」(ゆいせきほんざん)と呼ばれているそうだ。弘法大師空海に所縁の寺に与えられる特別な位置付けなのだという。
↓この高雄山神護寺が醸し出していた雰囲気が忘れ難いが…機会が在れば雪以外の時季にも訪ねてみたいものだと思いながら引揚げた。
正直、京都の街中というような感じの辺りから、路線バスで片道40分間程度というこの場所は「訪ね悪い?」と思わせてくれたが、実際に訪ねてみれば如何ということもなかった。そしてこの場所が醸し出す雰囲気は他には無い。高野山そのものに一定程度は通じるかもしれないが、高野山よりも「山の寺らしい感じ」が色濃いので少し違う…何れにしてもこの神護寺を訪ねたことは好い想い出で、早くも再訪の機会到来を願っている程だ…
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