所謂「旧街道」というモノは江戸時代に整い、沿道の宿場町等も江戸時代を通じて栄えたのである。
「旧街道」で最も知名度が高いのは、恐らくは東海道か中山道であると思われる。何れも江戸と京とを結ぶのだが、太平洋側を通る東海道に対し、内陸部を通るのが中山道だ。
その東海道と中山道とが合流または分岐する場所が在る。草津宿だ。現在は滋賀県草津市であり、京都駅から列車に乗れば北東側へ走って直ぐだ。
↓草津駅の前にこういう標柱が据えられている。
↑「左 中山道」ということだ。
↓眼を転ずると「右 東海道」というようになっている。
この駅前の標柱だが、高架になっていて、人が行き交う広場的な設えの場所に据えられていた。「東海道と中山道が交差した草津」というイメージで据えられているのであろうと思った。
↓高架を下りると、直ぐにこういうような「本陣」を案内する標柱に出くわす。
↓標柱は幾つか据えられているので、素直に辿って行けば「本陣」に至る。
旧街道は、江戸時代を通じてモノや人の往来に利用された訳だが、それが発展していった事情の一つに「参勤交代」が在った。各地の大名が、各々の知行地を江戸とを往来し、知行地と江戸の屋敷に隔年で住むという仕組みである。当時の大名は行列を組んで街道を進んで、江戸を目指すか、各々の知行地を目指すかという旅をした。当然、途中の宿場町に宿泊しなければならない。その大名等の宿泊に用いられた場所を「本陣」と称した訳だ。
↓これが草津宿の本陣である。
草津宿には2件の本陣が在ったそうだ。その中、1軒は建物が綺麗に残っていて、公開されているのだ。
↓中を見学させて頂くこととした。
↑なかなか広い建物だと思った。
本陣というのは、宿場町の豊かな家の所有する建物を利用する例が多かったようだ。そして、本陣という“宿泊事業”で利潤が得られるという程でもなかったそうだ。
↓利用する人達の要望に合わせて、部屋の仕切りを色々と変えながら利用した様子が伺える。
↓宿泊する一行の中で、身分が高い人達が入るような場所であるらしい。少し高く設えられているという。
大名行列のような一行の場合、一行の人員規模は様々であった訳だが、本陣は概ね大名その人と上席の随行者、身分の高い人達の手近な事を手掛けるような人達が入る場所であったように見受けられる。
↓所謂“チャンバラ”な時代劇ドラマで主人公が悪漢達と闘う場所のような…そういう江戸時代の少し広い屋敷の部屋という風情だ。
↓最も奥まった辺りに、一行の最上位の人物が居室として使う場所が設えられていた。
↓これが浴室だという…湯を張る桶が、壁際でもない部屋の真中のような場所に敢えて据えられている。入浴中に襲撃を受け悪いようにということらしい。この桶の周辺には、入浴時の介助をする人や警護の人が入ることにもなる。4人や5人で入っても違和感が無いような広さの部屋だ。
↓大人数が利用する場所に特徴的な、大きな台所も確り在った。
何かで聞いたような気がするが、大名行列というようなモノは、「日出前から日没後」というような感じで1日に40㎞やそれ以上をずうっと歩くことを何日間も続けるモノなのだそうだ。「〇〇と江戸との間はXX日」という標準的な行程が在って、それに沿って動こうとしていたようだ。それ故、この本陣のような場所に入っても、長く逗留するのでもなかったのであろう。
草津宿に関しては、東海道も中山道も通じていることから、江戸と京またはそれより西の地域とを往来した経過が在る、少し知られた史上の人物達の記録が随分と多く在るようだ。各地の大名行列の他、幕府の公用ということで旅した人達や、江戸等へ嫁いだ公家の姫様というような人達の本陣での宿泊例も在るようだ。そんな様々な人達が在ったであろう場所の感じを愉しんだ。
草津は2つの旧街道が出会う場であった訳だが、過ぎた日々と現在とが出くわすような感じも在るのかもしれないと思った。
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