慶長年間(1596-1615)というのは、江戸を本拠地とした徳川家がその基盤を強め、幕府を開いてその体制を固めて行こうとしていた時期に相当する。色々なモノが江戸に入り込んで、場合によってはその後の時代まで受継がれたという例も多く在ったと考えられる。
真言宗の高野山には、高野三方(こうやさんかた)というモノが在った。「学侶方」(がくりょかた)は密教の研究を専らとし、祈祷を行う等した。「行人方」(ぎょうにんがた)は寺院管理、法会という実務に携わり、所謂“僧兵”を輩出した。「聖方」(ひじりかた)は全国を行脚し、高野山信仰を説き、勧進を行い、高野山への納骨や納髪を進めており、全国の“空海伝説”の切っ掛けを作ったという。
その高野山の学侶方が「江戸在番所」を慶長年間に設けたのだという。やがて高野寺となって、火災による焼失や復興というような経過で幕末期まで続く。
明治期には高野三方というようなモノも無くなり、在番所も廃止されてしまった。しかし高野寺の流れは残った。そして1927(昭和2)年には「高野山東京別院」を号し、現在に至っているのだという。
↓再訪する機会に備えて、道順を覚えておきたいという意図で、唐突に妙な写真を出した…
↑都営地下鉄、または京急の泉岳寺駅で、駅名の由来になっている泉岳寺に近い「A2」という出口から出る。直ぐに泉岳寺の敷地に入る辺りに至る。そこを左に進むと、都市緑地が在る。近隣の児童が遊ぶような場所だが、そこに公衆トイレが据えられていて、これが目印になる。
↓公衆トイレの周辺から住宅等が視えている側へ踏み込み、少し進めば急な坂道だ。坂の上から振り返った。
↓坂を上がって平坦な道路になった辺りに高野山東京別院は在る。
↓境内に在った駐車場等の案内図だが、図の右上の側の路に坂を上って至り、引揚げた時はそこから坂を下ったのだった。
↓荘厳な本堂である。1988(昭和63)年に建立されたそうだ。
↓本堂は「遍照殿」と名付けられている。空海の別名が遍照金剛であることに因む訳で、弘法大師を祀っている。
↓足を踏み入れれば、厳かな空間である。
↓蝋燭も備え、真摯に祈った…
↓退出する際、何となく見上げてしまったが、広壮な空間に多くの人達が集まることも可能なような設えの場所だった。
江戸の街が栄えて行った経過と共に受継がれた、この地域での弘法大師の興した真言宗への信仰の拠点である。何か酷く興味深かった。
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