↓創建の頃の東大寺を再建したのだという模型が、東大寺大仏殿内に展示されている。
↓現在でも中央に門が在って、奥に大仏殿が建っているという状況では在る。往時はその東西に巨大な七重塔が建っていて、大掛かりな回廊も設えられていたのだという。
↑現在も伝わる興福寺の五重塔が50mを少し超える高さだが、往時の東大寺の東西の塔は、それを遥かに超える高さであったということのようだ…
こういう過ぎる程に荘厳な東大寺は、平安時代に至って建物の傷み等も目立って少し荒れるが、それでも修繕を重ねて維持されていた。が、それが破壊されてしまう大きな事件が在った。1180年の平重衡が率いた軍勢による南都焼討である。南都(=奈良)の寺院勢力との摩擦で平家が軍勢を差し向けたのだが、辺りを焼いて攻めた。この際に東大寺も大損害を被る。大仏が傷み、大仏殿も焼け落ちた。
↓1185年に大仏が修復され、1190年に大仏殿が再建されたという。「鎌倉時代の再建」ということになるが、東大寺大仏殿内に模型が展示されていた。
↑現在伝わっている大仏殿よりも幅が広い、より大きな建物である。
更に鎌倉時代には南大門のようなモノも含めて色々と整備される。その後も、東大寺は独自の勢威を保ち続けたようである。
戦国時代になると、松永久秀が大和国に覇を唱え、東大寺にも近い辺りに多聞城と称する城も築いた。この松永久秀に対抗した三好三人衆、或いは筒井順慶等の大和の古くからの勢力との争いが生じていた。
両者の抗争は、やがて東大寺の境内を戦場にする羽目となってしまい、東大寺の大仏殿を含めた多くの建物が損なわれてしまった。
この戦国時代の戦いで、大仏は長く雨曝しで、大仏殿の再建は行われなかった。漸くそれが成ったのは1708年であるという。
↓「江戸時代の再建」ということになる大仏殿も模型が在る。「鎌倉時代の再建」と比べて、少し小さいことが判る。
↑現在に伝わる大仏殿は、概ねこの「江戸時代の再建」の建物だ。この建物が修理を重ねて受け継がれている。
修復や再建の経過も興味深いが、その原因となった出来事にも興味は抱かざるを得ない…
源平の争乱の頃に東大寺が損なわれた経過は小説『龍華記』(りゅうかき)が面白く、判り易いかもしれない。
戦国時代に東大寺が損なわれた経過は松永久秀を主要視点人物とする小説『じんかん』が面白く、判り易いかもしれない。
色々と思いながら、東大寺大仏殿内の展示を観た。展示されている模型そのものも、少年刑務所での作業の成果なのだということで興味深い。
ここを訪ね、改めて有名な大きな建物を巡る遠大な物語に想いが廻った…
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