↓都営地下鉄と京急とが乗入れる泉岳寺駅の“A2”という出入口の傍に泉岳寺は在る。
泉岳寺は曹洞宗の寺だ。1612(慶長17)年に起こっているが、1641(寛永18)年に火災で焼失してしまった。火災後、徳川家光が5つの大名家に命じ、所謂「御手伝い普請」の形で現在地に再建されたのだという。
「赤穂義士」の物語で知られる播州赤穂の浅野家だが、この「御手伝い普請」の件を契機に、泉岳寺を菩提寺ということにしたのだそうだ。
↓本堂に「獅子吼」という額が掲げられるが、これは「釈迦の説法」ということを意味するのだという。
泉岳寺は「江戸三箇寺」と呼ばれ、江戸に在って曹洞宗の寺を束ねるような立場に在り、学寮が設けられて多くの僧侶が研鑽を重ねる場であったという。現在でも、大学で仏教を学びながら寺で研鑽をする若い僧侶が見受けられるのだそうだ。
↓「赤穂義士」の墓所が設けられている。これに御参りをした。
↑線香を一束求め、それを持って墓を巡る。適当に線香を何本かずつ墓碑に備えるのである。
↓こういう具合に誰が何処の墓碑になるのか、解るような看板が在る。
↓例えばこれが堀部安兵衛の墓だ…
堀部安兵衛(武庸 たけつね)(1670-1703)は、浪人の身の上ながら剣術道場で頭角を現し、同門の朋友の助太刀を買って出て「高田馬場の決闘」と呼ばれた闘いに臨み「十八人斬り」と勇名を馳せ、それが契機となって播州赤穂浅野家中の堀部家に入ることとなったという人物だ。「赤穂義士」の一件にも関与している。
この人物に関しては「高田馬場の決闘」ということで、学生時代に「堀部安兵衛が決闘の前に酒を飲んだ店の後裔がここの酒屋らしい」というような場所が御近所に在って、何か記憶に残っている。そういうことで、ここで墓碑を見出そうとした訳だ。
「赤穂義士」の墓所を御参りする等して、随分ゆったりと過ごした。実は…拙宅にこの泉岳寺の周辺で入手したと見受けられる四十七士の湯飲茶碗が在ったような気がする…(常用しているのでもないモノだ。)そういうことで「完全に初めて」ではないのだが、実質的には初めてのようなものだった。好い時間を過ごしたように思う。
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