整理整頓は不得手である。が、「訳が判らん…」というような気持に関しては、感じたことを書き綴るようなことをして、散らかしっ放しにしてしまわない方が好いかもしれない。そう思って手を動かし始めた。「訳が判らん…」が発生し、少しばかり時日も経て、落ち着いてモノを考えられるようになったような気もしている。
12月5日に泊ったのと同じ宿に、12月13日にまた泊り―流石に部屋は違う。5日は9階で、13日は11階だった…―過ぎる程に静かな早朝を迎えている。「多少勝手知った(つもりになっている)他所」と自身の中で位置付けている旭川に在る。
所用で札幌を往来する、或いは札幌経由等で他地域へ出向くというような場合、地元の稚内との往来に際して、旭川は「前線陣営」というような感で、往路や復路で宿を求めて泊るというのも、やや独特かもしれないが「自身の流儀」として或る程度定着してはいる。そして旭川駅から程近い、現在在る宿も気に入っているので、多少の間隔で再利用を繰り返すということでも、特段に不自然でもない。それでも「旭川から稚内へ北上し、急な事案により、翌日に直ちに旭川へ南下し、札幌へ出向いて急な所用に臨む」というのはやや特殊だと感じる。その所用が段落し、現在は復路の途上だ。この後、少々馴染んだ「朝の特急」に乗り込んで稚内へ北上する。
12月2日の朝に足元の凍った箇所を踏み込んで「派手な転倒…」という失態を演じた。多少、按配が悪くはなったものの、整形外科クリニックで「明確な形で骨等の損傷は認められない」という医師の診立てを聴き、数日間は少し痛みがキツい場合も在るかもしれないものの、何とかなるという判断をした。そして12月3日からは、以前から決まっていた札幌での所用のために出掛けた。
12月4日には、戯れに“居候所”と呼ぶ実家に顔を出していた。実家は所用の場所に近いことから御邪魔した次第だった。これも近年の概ね3ヶ月毎の所用の際には恒例となっている。ハッキリ言えば「どうしようもないわたしが歩いてゐる」という山頭火の句を想い起すような、明確な当てが在るでもなく彷徨うような人生かもしれない自身にも「両親」というモノは在る。所用で札幌に出ることを口実に、「御挨拶」に立寄っても罰は当たらない筈だ。そういうことでこれも恒例化していた。
そういうことの後、無事に稚内へ引揚げた旨を伝え、御邪魔した礼を言い、次の所用の予定等を告げるべく電話を架けることが恒例化していた。12月4日に和やかに過ごし、12月5日の朝に言葉を交わして出発し、無事に所用を済ませ、旭川へ移動した。旭川で適当に寛いで、12月6日に稚内へ戻った。
稚内に戻ってから、恒例に従って電話を架けたが応答が無かった。大概は“親父殿”が応答する。直ぐに電話に手が伸びずに出るのに時間を要する場合、何かの用で一寸外出している場合、入浴中や御手洗の使用中で応答し損ねる場合も在った。そういう場合は架電の旨が記録され、何やら表示される電話機なので、先方から架電も在る。何時だったか、老朽化した電話機を新たなモノに替えて「一寸試しているんだ」と何やら嬉しそうに架電して来た“親父殿”の話し口調も思い出す。“親父殿”は新しい道具を入手して、それを試用するようなことを面白がるような一面が在ったと思う。
そういうことなのだが、昼、夕方と何回か架電で全く応答が無いのはやや珍しく、また夕方迄にこちらへの架電も無い。「何となく…変な感じだ…」と思った。そうすると拙宅の電話が鳴る。応えると架電の主は“賢弟”であった。「落ち着いて聴いてやって欲しい。亡くなった…」と言い出した。“親父殿”が急に逝去したのだ。結婚式や出産のような慶事は、何ヶ月も以前から楽しみにするようなものだが、弔事は「急に逝去…」で驚かされる場合も存外に多いものであろう。
言われても「実感」に乏しい。“親父殿”と離れて暮らすようになってかなり長い。会う頻度も或る程度限られる。最近は元気と言えば元気ながら、些か身体の動きが悪くなっていて、それは少し気にはなった。12月4日から12月5日朝に会った際、「些かの“不調”の度合いが進んでしまった?」と気にならないでもなかった。それでも前日の朝に「それでは…」と所用のために出て、そのままゆっくりと稚内へ引揚げるとして、再会を期して別れたばかりなのだ。「色々と有難う」と言えば、「何も出来るのでもなく」と“親父殿”は言い、年末にまた寄る旨を伝えて出発したのだ。
例えば「入院加療中のところ逝去」というような形であれば、医師による「死亡診断書」というモノが出て来る。“親父殿”は少し違った。「死体検断書」というモノが登場した。自宅内で遺体になってしまった状態で発見され、運び出されたという事例だ。警察経由で法医学者に依頼が為され、「死体検断書」というモノが作成される訳だ。誰かが他界した場合の諸手続では「“死亡診断書”の写しを添え」というような話しが在る訳だが、“親父殿”に関しては「死体検断書」であった訳だ。
札幌に辿り着いたのは12月8日の朝早くだった。札幌では里塚に巨大な火葬場が在るのだが、その火葬場の都合等にも鑑み、少し傷んだ“親父殿”の遺体に関して素早く火葬することとなった。やや体調の優れない“母上”と、「遺体」となってしまった“親父殿”を運び出す場面で奔走した“賢弟”、和やかに過ごして遺体を観る迄「何やら訳が判らん…」という感であった自身の3人で「御別れ」で出棺した訳だ。火葬場には“賢弟”と自身との2人で向かい、火葬場の職員の方の介助も得ながら、“親父殿”の骨を拾った。
「優しい人だった…」とは、「御別れ」に臨んだ“母上”が些か涙ぐみながら吐いた言だ。“親父殿”は、身近な人に関しても、他所の縁が深いでもない人に関しても、「些かの、入り込み過ぎない程度の距離を取りながらも、温かく見守るようにしたい」ということを貫いた人だと思う。そして「馬鹿息子」たる自身や“賢弟”に関しては、「勝ち目の低い戦に突入しようとする愚か者」という様相であっても、「俺は御前達の“親父”だ…飽くまでも応援する!」ということを貫いてくれていたと思う。
何時、何処で如何撮ったのか知らないが、実家の片隅に設けた、火葬した骨を入れた容器を置いている“祭壇”の前に「遺影」が在る。幾分在る選択肢から、自身が額縁の色等を指定した遺影だ。それを見詰め、もう会って和やかに過ごすことも無いと実感していた。
身近な人物との間に、物理的に声を掛け合うということとは少し異なる「呼び合う」というようなことでも在るのだろうか?そんなことも思っている。
以前に“親父殿”から架電で、話しを聴かされたことが在った。“親父殿”の兄、自身の“伯父上”ということになる。御無沙汰してしまっていると、“親父殿”は“伯父上”に架電して言葉を交わした。「何か…元気が無い…」と感じ、“伯父上”の息子、自身の“従兄”に架電でその旨を伝えた。そうしたところ、少し前に体調を崩した経過が在ったと知ることになった。“伯父上”の御近所に住んで居た“従兄”は連絡を受けた翌日、様子を観に訪ねてみた。そして…「叔父さん…驚かそうという訳ではない…父が…」と“伯父上”の逝去を伝えられたのだという。
この“伯父上”の件を“親父殿”から聴かされた時、「兄弟の絆」というのか、互いに「呼び合う」という何かが在ったのかもしれないと思っていた。そして今、自身と“親父殿”との間にその「呼び合う」が生じたのかもしれないのだ。「落ち着いて聴いてやって欲しい」と言われたが、別段に取り乱しているのでもないが、何やら「訳が判らん」という感じだ。何か考えようにも、考えが千々に乱れるような様子だった。
実家の玄関で、「色々と有難う」と言えば、「何も出来るのでもなく」と“親父殿”は言い、年末にまた寄る旨を伝えて出発という場面が「最後」だった。“母上”が泊りで施設に出ていたことを踏まえ、夕刻に自宅でのんびりと過ごしていた最中での逝去だった。“賢弟”とも話題にしたが、何やらの病気療養で何ヶ月間とか何年間に亘って苦しい思いをするというのでもなく、多少の御騒がせであったにせよ、「眠るように力尽きた」というのは、それはそれで善とすべきかもしれない。
こういう顛末…少し記憶に留めなければなるまい…
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