↓見逃すというのか、全く気付かない場合も多いと思う。歩道の上、横断歩道の辺りになるのだが、「大極殿跡」と足元に文字が在る。
↑「大極殿」というのは、平安京で天皇が活動した宮殿のことである。その宮殿の跡と考えられる場所であると、実にさり気なく示されている。
こういう具合に「無造作に、その辺に史跡」というのが、建都以来1200年以上も経っている、古くからの歴史を誇る京都「らしい」のかもしれないとも思った。
↓「無造作に、その辺に史跡」というようでもあるが、少し歩を進めると、「大極殿」に関する説明のプレートも掲出され、関心を寄せた人が少し学ぶことも出来るようになっている。
京都の街を南北に貫く烏丸通の地下を地下鉄が通っていて、少し北寄りに丸太町駅が在る。その丸太町駅から西寄りの方向へ少し歩いてみて、この「大極殿」というような、「嘗ての平安京の主要施設」の跡を伝えるモノに出くわした。
↓画の右側に東西に延びている丸太町通を示す看板が在って、真ん中辺りに南北に延びる千本通を示す看板が在る。
↑京都の街中でよく見掛ける感じであるが、この千本通が、平安京の真中を南北に貫いていた朱雀大路の跡と考えられるということだ。現在の京都は、平安京の創建時から事実を経て、かなり東に偏った形で推移しているという事に思い至る。
↓辺りの、銀行の支店が入った建物の脇には、朝堂院という平安京の重要施設の跡という説明のプレートも在る。
次々とこういうのが現れ、「無造作に、その辺に史跡」と改めて驚かされた。
↓そしてこういう場所に至った。
↑京都市の施設で、会合や講演会や学習会等を催すような場である「生涯学習センター」と、市民が幅広く利用する図書館が併設されている場所にもう一つ、<平安京創生館>という資料館が更に併設されている。
↓「街の歴史」に纏わる京都市の施設で、特段に入場料等は無用となっていた…
↓「平安京」だ!!
↑「千分の一」で成功に造られた平安京の模型である。
館内に在った御案内頂ける係の方によると、「建都1200年」の頃(1994年頃)に「平安京の模型」という企画が持ち上がり、そして出来上がったのが展示中のモノであるということだ。
↓やがて院政期に巨大な伽藍を誇る寺が在ったと伝わる東の端側や、院が活動する壮麗な御所が築かれたと伝わる南の側等、当初は造られなかった部分の模型も加わった。
↓現在の京都市の地図の上に、平安京の範囲を四角く囲って示している。平安京が登場した頃から相当に東側に偏って発展し、現在に至っているということが判り易いと思う。
↓画の右側、東寄りな辺りでは様々な邸宅や寺社が建ち、商工業地域が発展し、やがて豊臣政権期の区画整理や建設が在って、近代に入って現在に至る。
↑その東に対し、画の左側の西寄りな辺りは、低湿地で利用し悪かったようで、東寄りな地域のように年月を経ても都市化が鈍かったようだ。
↓現在は見受けられない巨大な建造物も平安京には在ったそうだ。今日では動物園になっている辺りの寺の塔は高さが81mも在ったそうだ。発掘した遺構から推定しているという。
↑東寺の塔が、現在伝わるこの種の建物で最も背が高いが、高さは55mである。聞けば、嘗て大きな権力を手にした人達で寺の建立を手掛け、高層の塔を建立した例が幾つも在るようだが、残念ながらそれらの多くは伝わっていない。高層建築に避雷針を据えるというような考え方、知識が無かった時代のことで、高層建築は落雷を受けて大火災となって喪われたという例ばかりのようだ。
↓手が込んだ模型等を視ながら、「平安京」という時代に想いを巡らせるこの場所の展示がなかなかに好かった。
なかなかに好い施設なので、記憶に留めたい。そしてこういう「古い街の経過」に関心が在る方には広く御薦めしたい。
>>平安京創生館 公式サイト
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