蛤御門:京都御苑(2022.12.24)

↓こういう標柱が据えられている箇所が在る。
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↑「蛤御門」(はまぐりごもん)という場所だ。

1864年の「蛤御門の変」または「禁門の変」と言われる事件の主要な舞台と伝えられる場所だ。前年に政変で不利な立場になって京都から追われてしまった長州が失地回復を目指し、京都守護職等の幕府勢力の排除を目論んで京都に出兵し、幕府勢力に敗れてしまったという一件で、天皇が在る場所である御所を巡る攻防の激戦地であった辺りに因んで「蛤御門の変」と呼ばれる。御所の門は「禁門」と呼び習わされることから、事件を「禁門の変」とも呼ぶ。

この戦闘に際しては、御所の周辺の邸宅で火災が発生し、延焼が拡がってしまい、一条周辺から七条周辺に至る広い範囲で火災に見舞われたという。京都の街の歴史では、「どんどん焼け」として伝えられているそうだ。

↓これがその蛤御門だ。
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↑多分、門の傍に京都守護職を担った会津の将士が警備のために陣取って、そこに長州勢が挑みかかって戦闘になったのであろう。画の左側を少し進むと、現在は同志社大学になっている辺り―少し北側ということになると思う―が薩摩島津家の邸宅が設けられていたという。恐らくそこで支度を整えてた薩摩の将士が進んで来て、会津勢を援護して長州勢に攻撃を加えたというような展開であったのであろう。

御所とその周辺はこの蛤御門を含めた幾つかの門も設えた塀で囲まれている。室町時代の後半辺りから、現在も「京都御所」として知られる京都御苑の周辺に御所が設けられ続けていたようである。蛤御門の眼前の烏丸通等、周辺の様子は時代毎に変わっていることであろうが。「蛤御門の変」または「禁門の変」の頃には、門の直近から烏丸通の幅目一杯、または近隣に両陣営の将士が散らばって激しい戦闘が繰り広げられたのであろう。

↓分厚い板で造られた門扉なのだが、経年劣化なのか、1864年の事件で飛び交った銃弾か何かで傷が着いたのか、何とも言い難い雰囲気が在る。
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↓「蛤御門の変」または「禁門の変」の頃を舞台にするような小説を多々読んでいる関係で、何やら非常に興味深くこの場所を眺めた。
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実を言えば、場所そのものに強い関心も在ったのだが、極めて「実用的な事由」でこの門を潜った。護王神社へ参拝し、烏丸通を横断するとこの蛤御門が直ぐに在る。広い京都御苑の敷地の反対側へ出る場合、日中の京都御苑の通り抜けが可能な時間なのであれば、ゆっくりと京都御苑の敷地を横断するのが近くて早いのである。そういう事由で、この蛤御門を潜り、反対側を目指したのであった。

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