そういう経過を経て、今般はフランチャイズチェーンの中で、その名も「本能寺店」を号する場所でハイボールを頂いて寛いだという経過の中、御勘定を済ませながら、「直ぐ傍の本能寺に御参りに…」と言いながら退出したのだったが、本当に本能寺に立寄ってみたのだ。
場所に出くわして以来、随分と長い時間を経て、漸く本能寺に立寄ったということになる。
↓寺町の老舗喫茶店辺りから御池通側に歩を進めた側に入口が在るのだが、何か物々しい標柱が据えられている。かの織田信長に所縁の本能寺という訳である。

↓辻説法に建つ日蓮上人というイメージの像が据えられている。本能寺は法華宗の寺である。

織田信長が明智光秀の襲撃を受けて斃れた本能寺は、現在地に在ったのではない。現在地に関しては、豊臣秀吉が「寺を街の端の側に集め…」というように区画整理―寺町辺りが、秀吉の時代の「繁華な街の端」であったようで、幕末や明治初期までそういう感じであったようだ―の中で構想し、当時は織田信長が討たれた一件で焼け落ちて―明智勢は織田勢を追い詰めるべく火を使ったようだが、信長の警護の任に就いた人達が鉄砲を主要装備としていて、多量の火薬が当たりに在った関係で、事変に際して想像を絶する大爆発が起こって辺りが粉砕されたという説が在るようだ…―しまって、何れにしても再建せざるを得なかった本能寺を現在地の辺りに移転させたのである。
↓いよいよこの本能寺を御参りする。が、「本能寺」の「能」の字について、「やや独特な書体」が用いられていることに気付く。「能」には「ヒ」が入っている。「ヒ」は「火」に通じる。焼け落ちた歴史を思うと、「火」はロクでもない…そこで少し変わった書体が用いられるようになったらしい。

↓そして中へ…本堂に詣でて、かの織田信長の歴史を伝える寺に辿り着いたことに感謝である…

↓奥に織田信長を祀る廟も在った。

少し前に訪ねた、織田信長を祀った建勲神社とも少し色合いが違う何かを感じるのが、この本能寺だった。
↓本能寺には<宝物館>(有料)が在って、織田信長に所縁の刀剣等、少し面白いモノが観られる。こういうのも一寸興味深い…

↓<宝物館>は写真撮影は「御遠慮願います」なのだが、構わないというモノも在る。この甲冑がそういう構わないモノである。

↓明治時代の前半、幕末期からの甲冑職人が「織田信長公のモノ」を想って造ったという甲冑が寺に寄贈された経過が在るのだそうだ。そのモノが飾られている。

↑なるほど、かの織田信長が幾つかの合戦の際に着用したモノを想起させる。加えて、「武士の実用品」として甲冑が大事にされていた時代の最後の時期の「本物だけが備える何か」が感じられる。余計な説明抜きに「見事な工芸品」として見入ってしまうものが在った。
↓そんなことで、少し面白い時間を過ごしたと思う…

「寄りそうで寄れない…」というような経過が在って、「漸く寄った!」で興味深かった本能寺である。少し強く記憶に残る場所となった…
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