↓展示室入口から入ると、こういう具合に機関車が鎮座している訳だ。

↓1880年代の車輛で、後の日本の蒸気機関車と比べて少し小ぶりだが、それでも近くで観ると迫力は在る。

↓小樽に在るこの機関車は「6号機」で、先頭に「6」と大きく書かれている。

↓製造に携わった米国のポーター社のプレート等が在る。

1880年製造の1号機が<義經>(義経)、2号機が<辯慶>(弁慶)と、1882年製造の3号機が<比羅夫>、4号機が<光圀>と、1884年製造の5号機が<信廣>と各々愛称を与えられた。1885年製造の6号機は<しづか>と命名された。間隔が少し開き、1889年に2輛製造されているが、これらには愛称は冠せられていなかった。同型が計8輛在ったのだ。
↓テンダーに<しづか>と確り愛称も入っている。

↓説明の表示も掲出されていた。

↑仕様データは英語とロシア語も入っていた…
↓運転台だ…

↓所謂「西部劇」の時代の設計で、独特なデザインの蒸気機関車で面白い。

炭鉱を開発し、石炭を運び出す輸送手段である鉄道の敷設が進められた関係で、北海道の鉄道敷設は国内の他地域と比べて比較的早い。小樽市総合博物館が在る手宮は、北海道で最初の鉄道が敷設された地域という経過も在る。内陸の幌内炭鉱の石炭を小樽へ運び、船積みして需要先へ送り出すということが企図されたのだ。
↓石炭輸送に加えて、客車を牽引した例も在ったようだが、明治時代の乗客の夢や希望も運んでいた筈の米国生まれで在る機関車を眺め、何となく色々と想い巡らせていた。

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