京都駅や山科駅を起点とすれば、大津駅の方へ進んで琵琶湖東岸に延びる軌道を進む列車に乗って滋賀県内を北上し続け、岐阜県方面への軌道が伸びる米原駅を経て、更に進んだ辺りが「湖北地方」と呼び習わされる辺りであるようだ。その湖北地方の街の代表的な駅が長浜駅ということになる。
長浜は、かの豊臣秀吉(未だ“羽柴秀吉”と名乗っていた頃だが…)が城と城下町を築いた経過が知られる街だ。豊臣秀吉は主君であった織田信長の“長”の字に因んで当時の「今浜」という地名を「長浜」に改めたらしい。その名が現在に至って受継がれているということになる。後に“天下人”となる豊臣秀吉が、初めて「城持ち大名」ということになったのが長浜であった。
長浜城は後に地震で傷んでしまうような経過も経て、江戸時代の政策で城の数が減らされて行く中で、城としては廃止される。が、辺りは水陸の交通の要衝として一定の存在感を保ち続けたようだ。明治期以降も、鉄道駅が設けられるというようなことで、一定の存在感を示していたようだ。
現在、この長浜には琵琶湖を行き交う遊覧船が行き交う港が在る。その遊覧船に乗ってみようと長浜にやって来たが、船に乗る迄に少し時間が生じた。琵琶湖を渡る風がやや冷たい場面も在ったが、好天に恵まれた中、少し辺りを散策することにした。
↓桜が素晴らしい公園に行き当たった…
↑今季は「開花や満開の時季が例年以上に早い」という様子だった。が、この長浜では見事な様子だった。
↓嘗て長浜城であった辺りで、その天守閣を再現している。その辺りを豊臣秀吉に因んで<豊公園>(ほうこうえん)と呼んでいて、桜が多く植えられている。
↓見事に花が咲く桜に囲まれるように、城の建物というのは実に美しい。
聞けば、戦国時代の末期に石垣や壮麗な建物の城が築かれるようになり、江戸時代にも受継がれたが、往時は城に盛んに桜を植えたという訳でもなかったらしい。明治期以降に、城の場所が公的施設の用地として、街の公演として利用されるようになって以降に、好んで桜が植えられるようになったらしい。
↓色々なことが思い浮かぶが、それはそれとして、眼前の桜は素晴らしい…
↓咲き誇る桜と、城の建物というのは酷く好い。
↓少し強めな風に桜の花弁が散る「花吹雪」のような様子も些か見受けられた。
生の花卉を扱う花屋で、花を冷蔵庫に入れて保管している例が在ると思う。花が長持ちするのだという。長浜辺りは、琵琶湖を渡る冷たい風の故に、近隣の地域よりも気温がやや低い。故に開花が少しだけ遅いが、同時に咲いた花が周辺の地域よりも「長持ち?」という傾向が在るらしい。
↓初めて訪ねてみた長浜だが、色々な意味合いで「忘れ難い…」ということになった。他所が「盛りを少し過ぎた?」というような様子の桜を確り観て愉しむことも叶ったのだ。
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