↓小樽駅前からバスに乗り、「祝津3丁目」という停留所に到った。下りて直ぐ、美しい海が視える場所が在った。
祝津は、鰊漁の故に相対的に早く拓けた地区で、明治期以降は鰊漁が大変な隆盛を誇るようになり、祝津の「御三家」として知られる、青山家、茨木家、白鳥家というような有力な網元も登場した
↓「御三家」の一つである青山家が遺したモノを伝える場が在る。富裕な鰊の網元は、大きく立派な番屋や邸宅を持っていて、そういう建物は「鰊御殿」と通称された。そこで施設に<にしん御殿 小樽貴賓館>と名付けているのだ。
↓文化財建築が在る旨が掲出されている。
↓敷地が塀に囲われている。塀に沿って歩を進めた。
↓入口だ。左側の奥は、現代の建築であり、料理店になっている。右側が青山家の別邸である。
↓青山別邸の外側からの眺めだ。中は原則的に撮影禁止になっている。実際、観れば貴重な美術品と呼び得るモノが溢れ、美術館同様にモノを保護する見地で「御遠慮願います」としていることが判るのだが。
↓この種の、富裕な家の旧い邸宅というようなモノは、用意し得る最良の材料を使って丁寧に建てている訳で、非常に重厚である。
↓瓦が屋外に展示されていた。
↓肥料に用いる鰊の“しめ粕”を炊く時に用いた大釜であるとのことだ。
↑最盛期には、時季の3ヶ月間程で100万トンに迫る漁獲が在ったという鰊だが、その多くは各地の農業で用いる肥料の材料になっていたのだった。
↓料理店になっている部分のエントランスホールは、少し豪華な設えで驚いた。
青山家は非常に富裕な網元であった。大正期、山形県の本間家との交際で彼の地で邸宅建築に触れた青山家の後継者が、高価な材料を用意させて築いたのがこの別邸だ。高価な材料を使うに留まらず、細かい細工を施した場所が溢れており、当代一流の書画が飾られている。何やら「美術館の展示の中で暮らす??」という様相だ。新宿の百貨店のビルが50万円で建った時代、延べ6年半の工事でこの別邸に費やしたのが31万円であったという。現在の貨幣価値なら数十億円、または殆ど百億円となるであろうか?
↓そんな別邸だが、「ここは写真を撮って構いません」となっていたのが庭である。
↓中央奥、やや右寄りな松が、「天から下りる龍」を思わせるとして、それが視える庭を「パワースポット」としている。
結局、1955(昭和30)年頃迄に、或いはそれより以前に鰊は不漁となって行き、肥料としての需要も激減しており、鰊漁が隆盛であった時代は去ってしまった。非常に富裕であった網元も。所謂「鰊御殿」を手放すような状況となって行ったようだ。
それにしても「凄いモノ」を見学させて頂いた…今般、祝津は思い出深い場所となった。
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