祝津を歩き廻っていた。
↓岬の小高い場所、灯台の辺りを見上げると大きな建物が在る。
↓聞けば幅が30m弱で、奥行きが13mというような程度の建物であるという。単純計算で出る1階部分の総面積としては100坪以上にもなる。
↓大きな建物で、近付くとなかなかの迫力だ。
実はこの建物は、所謂「鰊御殿」または「鰊番屋」である。網元の住む部分と、漁場で働く人達が滞在する部分とを大きな建物の中に併せて備えた独特な様式の建物である。
祝津では古い「鰊番屋」の建物外観が概ね本来の位置に遺っている例が観られる。この種のモノは海岸部の平地という感じの場所に建てるのが自然だ。海を眺める等するのであれば、建物の上階から望むか、誰かが近くの高台に走った筈で、高い場所に建物が建っている必然性も無い。
↓実はこの建物は、祝津の高台に移築された建物である。
積丹半島に古宇郡泊村(ふるうぐんとまりむら)が在る。1897(明治30)年頃と伝えられるが、積丹半島を代表した網元であった田中福松がこの建物を建てたのだそうだ。田中福松は1854(安政元)年頃に叔父を頼って津軽から北海道へ渡り、働きながら資金を貯め、漁場の権利を得て網元になって行ったそうだ。
この田中家の建物が、1958(昭和33)年に現在地に移築されて小樽市に寄贈されて、鰊漁が隆盛を誇ったというような地域の歴史を伝える市の施設として、現在も運営されているのだ。
↓漁の最盛期に働く人達が多数寝泊まりしていたような場所が在った。
↑建物内での写真撮影は構わないということになっていたので、眼に留まったモノを一部撮った。
↓中の様子が図解で説明されていた。
↓こういう古い建物らしい急な階段も設えられていた。
↓上階の部屋は来客用であったようだ。
こういう様子だが、建物の内外装や構造に関して、現在では用意し悪いような長く太い材木等、有力な網元ならではの「惜しみなく資金を投じて番屋を建てた」という様子が垣間見える。
↓こういう樽を用意した経過も在ったようだ。(<北の誉>は小樽にも起源を求められる会社で、醸造所も在ったそうだ。長い経過の中、幾つかの会社の合併等が繰り返され、2016年に大きなグループに吸収され、小樽に在った醸造所は廃止されたそうだ。)
小樽や積丹半島等、辺りの地域の建築様式を伝える、総二階造の堂々たる建物が、岬の上から辺りを睥睨するように佇む様は少し独特で面白い。そして鰊漁を巡る経過を始めとした興味深い展示が観られる。そして好天であれば景色も素晴らしい。興味深い場所だ。
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