
↑1880年製造の1号機が<義經>(義経)、2号機が<辯慶>(弁慶)、1882年製造の3号機が<比羅夫>、4号機が<光圀>、1884年製造の5号機が<信廣>、1885年製造の6号機が<しづか>と愛称が与えられているのだが、それらの機関車に着いていた製造銘板のレプリカだ。
↓直ぐ傍に展示されている<しづか>だが、左側の筒状になっている場所に銘板が着いているのが判る。各機にもこういう要領で銘板が着いていたのだ。

↓1号機の<義經>(義経)の銘板。<義經>(義経)は京都の博物館に在る。

↓2号機の<辯慶>(弁慶)の銘板。<辯慶>(弁慶)は大宮の博物館に在る。

↓3号機が<比羅夫>の銘板。

↓4号機の<光圀>の銘板。

↓5号機の<信廣>の銘板。

↓上記の着いている例を示した6号機の<しづか>の銘板。

北海道にやって来た機関車の製造記録や残っている実物の銘板を細かく調べて、各機の銘板を特定して再現したのであろう。何れも製造開始年次と思われる年号と、工場での通し番号と思われる数字が在る銘板だ。
明治時代の機関車には史上の人名が採られたのだが、如何いうモノであれ、乗物に愛称が冠せられるというような感じは、個人的には好きだ。
義経と弁慶の主従については、平泉の戦いの後に抜け出して遠く北海道へ渡ってというような伝説も在るようだ。そういうことで、北海道で走る機関車に命名したのか?そして暫く経って、機関車を増備する際に「別れてしまっていた静が義経を追って北海道へ…」と<しづか>と命名したのだろうか?色々とかってに想像するのだが、<しづか>の後に同形機が増備された際には、こういうような愛称は無かったそうだ。
少し興味深く拝見した展示を記憶に留めたい。
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