「神社の鳥居」というモノは、街を歩く場合に「目印」というような感じになると思っている。他所に出て、神社の鳥居にでも出くわすと「あの鳥居の辺りは…」と記憶に残り易いように個人的には思う。
実は礼文島の香深港から然程遠くない辺りにも少し立派な神社が在って、記憶に残る。「港側から神社の辺りを過ぎて…」という具合、逆に「あの神社の辺りに出て、更に進んで…」という具合に記憶する訳だ。
↓往路では「港側から神社の辺りを過ぎて…」と目印にした。復路は「あの神社の辺りに出て、更に進んで…」と目印にした。
↑港の辺りに出る前に、この厳島神社に立寄ることとした。
↓境内へ上る階段脇に神社の由緒を紹介する看板が掲出されている。
江戸時代のこの周辺では、現在の稚内市内に在った「宗谷場所」を結節点に近隣を結んで色々な仕事をするようになっていたようだ。1808年、この近隣で仕事をしていた人達が、礼文島にも祠を設けて豊漁や安全を祈願するようにしたというのだが、それを起源とするのが厳島神社である。
「1808年」と言えば?かの間宮林蔵が樺太探検を始めた時期であり、ロシア船との悶着を受けて「北方警固」と称して宗谷に武士達が乗込んでいた時期でもある。1808年には、会津松平家が総力を挙げて武士達を派遣し、宗谷を起点に利尻島や樺太にも上陸したという出来事が在った。
そんな昔からの伝統を受け継いでいると考えられる厳島神社は、“礼文島鎮守”ということで大切にされている。近代以降は漁業や海運業が盛んになって行ったが、その種の仕事に携わる人達が、立派な絵馬を奉納していたような経過も在るという。
↓階段を上がって社殿を目指す。
↓素晴らしい天候に恵まれ、愉しく礼文で過ごすことが叶ったことに感謝の意を表したいと考え、参拝した。
↓高台になっている境内の一部から、木々の葉が少し視界を遮ってしまうものの、遠くの利尻富士の山頂が視える。
↓社務所に立寄って、御朱印も頂いた。
実は2021年7月に礼文島へ上陸した際もこの厳島神社に寄っている。その時以来の礼文島再訪で、今般も愉しかったので、“礼文島鎮守”に感謝の意を表すべく参拝も出来たということは幸いであった。
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