「初めて」な街…=運行日誌(2023.12.25)

確り食事も済ました。何か精力的に動き、長距離の移動も在った。現在、富山駅周辺の宿の居室で寛いで居る。些か雨は交っているが、酷く降っているという程でもない。

稚内を発った夜は氷点下6℃程度だった。羽田空港に下りた時の案内ではプラス8℃だった。案内の中で敢えて「プラス」とは言わなかった。東京辺りでは「氷点下」は稀だからであろう。大宮辺りもこのプラス8℃程度で変わりなかったと思う。動きっ放しで眠気を禁じ難くなり、少し深く短く眠り、また眼が冴えて起きていた。そうしている間に日付が変わった。出先では往々にして在る形だ。

早朝に至り、大宮の宿の居室で考えた。大宮の近在で少しゆっくりし、夕刻に移動し、移動した先で連泊でゆっくりしようということにした。そして朝早く、宿の朝食の前に大宮駅に足を運んで列車の券を入手し、宿に引揚げて朝食を摂った後、宿をネット予約ということにしたのだった。こういうような「早朝に考えて、直ぐに動く」というのが、「時間を設けて随意に」という場合の過ごし方というものだ。富山を目指してみることにしたのだった。

富山に関しては、日本海岸を列車で移動した際に通貨はしている。が、富山駅で下車して辺りを歩いたというようなことは全くしていない。凄く興味が在った。そこで、今般は富山に入って、少しいゆっくりすることとした。

その富山の前に大宮である。大宮では「武蔵一宮」こと氷川神社を訪ねた。朝の8時台から動き始めた。動く前に、列車で富山を目指すまでの間、嵩張る荷物を大宮駅のロッカーに預けた。

嘗ての帝国海軍で、軍艦に神棚を設けた時に艦の名に所縁の神社の神職を呼んで儀式を催したそうだ。<大和>は奈良県の大和神社の神職を呼んだと聞いている。<武蔵>に関しては氷川神社の神職が呼ばれたそうだ。「武蔵一宮」に因んでのことであろう。もう少しで2500年と伝えられる永い歴史を誇る氷川神社である。なかなかに立派だ。参拝して御朱印を御願いすれば、対応して頂いた神職は北海道に所縁と判った。開いた御朱印帳の頁の隣に旭川の上川神社で頂いた御朱印が見えた。その方は「懐かしい!」と口にされた。北海度王で活動した経過も在るそうだ。何か「大きな御縁」を感じた。

氷川神社で気を好くして、そのまま川越を訪ねてみた。川越駅で、その辺の地図でも頂こうと、観光案内窓口が開いていることに気付いて、係の方に訪ねた。判り易く元気に、熱心に色々と足得て頂き、そして話しながら見ていた地図を頂き、それを手掛かりに川越を歩いた。見所が多い。実に沢山歩いた。

<川越まつり>を紹介する展示施設が秀逸だった。関係者の皆さんが来館者に色々と説明して下さるのだが、それが非常に好い。結局、「地域の色々なことを語ることが出来る地元関係者」というのが最も貴重な訳だ。<川越まつり>は、江戸で盛んになっていた祭の色々な事柄を採り入れた。江戸の祭は明治期以降に少し姿を変えるのだが、川越の祭は、結果的に江戸時代の様子がかなり残ることになった。それが受継がれているというのだ。

大宮や川越で、殊に川越では沢山の写真を撮った。後日、その見聞を色々と綴ろうと思っている。

大宮駅で荷物を引き取り、新幹線乗場への長い通路を動き回って、新幹線の列車に乗った。東京・長野の新幹線が開通し、年月を経て、長野から更に富山や金沢への新幹線が開通しているが、ここまでその「北陸新幹線」に乗車してみた経過は無かった。もっと明るい時間帯に、外の様子をゆっくりと観るようにすれば好かったのかもしれない。列車は意外に混んでいた。全席指定で、ゴチャゴチャはしていないのだが、何となく窮屈だった。やや少数派の、大宮・富山間の乗車という形だった。

新幹線の駅を備えて大改装したと見受けられる富山駅、そして再開発されたのかもしれない富山駅の周辺は、何やら壮大な感じだった。そして宿に入り、一息入れた後、近くで「北陸の寿司」という手頃な御店を見付けたので立寄ってみた訳だ。

明日?如何しようか、余り決めていない。路面電車が動いている様子を既に見たが、「1日券」というモノも在るようだ。それを入手して、富山を少し歩き廻ろうとは思っている。

最初は少し慌てたが、始動してみれば今般の行動は「順調」と言えると思う。社寺を訪ねる都度、「感謝の意を表する」という感じだ。

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