↓敦賀の金ヶ崎緑地の端の側へ歩を進めると、「往年の街並み?」という風情の建物が見える。
↓辺りの旧い建物の雰囲気を再現した建築群ということになる。
↓「復元建物」というようなことで、説明をしたパネルも掲出されていた。
敦賀は「開港」(国外との貿易を行う港)ということになって、古くからの伝統を踏まえて近在の国々との貿易拠点として栄え、発展して行った。やがてウラジオストクとの船での連絡を経て、日本と欧州とを列車で結ぶ経路の上に在る港という位置を築く。欧州との間で「玄関」ということになった訳だ。
そういう経過の故に、困難に直面した人達を支援したという経過の中で「敦賀」が登場している。そういう歴史を紹介する展示施設が<人道の港 敦賀ムゼウム>である。「ムゼウム」は、博物館や資料館を意味するポーランド語から採られた名だと聞く。
↓入口から中に入り、展示を確りと見学した。
「人道の港」と称しているが、この「ムゼウム」で取上げているのは2つの出来事だ。
1920年頃、ロシア革命後に内戦の混乱が生じた。シベリアや極東にポーランド人が在ったのだが、そうした中に保護者を喪って“孤児”ということになった少年少女が多く在った。その“孤児”を支援する動きが在り、日本でも協力することになった時、ウラジオストクで彼らを乗せた船が着いたのは敦賀だった。そして“孤児”を援けるべく、敦賀から彼らを迎えた場所へ送り出したのだった。
1939年から1940年頃、欧州で戦雲が立ち込め、ユダヤ系の人達が迫害を受ける状況も生じていた中、日本を経て他所に移り住もうという人達の動きが在った。“難民”である。彼らの一部はポーランド辺りからリトアニアのカウナスに入って日本の通過査証を得ようとした。そういう事情で日本領事館を訪ねた多くの人達に、杉原千畝領事代理が査証を与えた。所謂「命のビザ」として知られる挿話だ。それを手にした人達が苦心の末にウラジオストクに辿り着き、船に乗り込んだ。彼らが最初に到着したのは敦賀だった。
そういう“孤児”や“難民”の件、敦賀での出来事等を色々な角度で伝える展示は非常に興味深かった。
↓更にこういう企画展示も在った。
↑地元の高校生がムゼウムに纏わる活動を展開し、その縁で招きを受けてポーランド等へ研修旅行をした経過等、色々と興味深い紹介が在った。
敦賀駅周辺から金ヶ崎緑地辺り迄は、片道で30分弱は歩くのだが、そうやって訪れてみた価値は高かったと思う。今般、敦賀に立寄って、ここを訪ねられたことは非常に善かった。
この記事へのコメント