↓辺りを歩いて、こういう様子を視掛けて護王神社を再訪しようと思い立った。と言いながら、護王神社に導かれたのかもしれない。「神社」というのはそういう感じ方をさせてくれる場合が在るかもしれない。

↓境内に和気清麻呂の像が在った。

↑この人物の名は、かの道鏡が“御神託”で皇位を譲り受けるという一件が取り沙汰された際、“御神託”の宇佐八幡宮を訪ね、「そんな“御神託”等無い」と報告し、道鏡の皇位の件が沙汰止みになったという事件で出て来る。称徳天皇が側近の女官に確かめるようにと指示したところ、身体が弱いので宇佐八幡宮への旅が大変であるとして弟の和気清麻呂に依頼したという。道鏡は皇位を譲られた後は優遇すると和気清麻呂に伝えていたらしい。それはそれとして「そんな“御神託”なるモノは…」と正直に報告している。この挿話に「侠気溢れる」と少し共感する。その和気清麻呂の凛々しい像を少し見入った。
↓年末の神社である。初詣の準備で、翌年の干支の大きな絵馬が用意されていた。

↓狛犬ならぬ「狛猪」が据えられている。

↓この「狛猪」も面白い。

↑和気清麻呂は足が不自由になってしまい、輿に乗って移動したが、猪に護られて輿で移動していた後、不自由だった足が快癒して、普通に騎乗して移動することも可能になったのだという。そんな説話から、和気清麻呂や猪という神社なのだ。
↓手水鉢のような箇所にも、猪のデザインが採り入れられている。

↓社殿の趣も気に入っている。

↑身近な人が相対的に健やかであることに、自身がまた京都を無事に訪ねられたことに感謝の意を表すべく参拝をした。
↓華麗な生け花と干支の龍の細工が奉納され、飾られていた。こういう生け花や細工というようなモノには、「永い歴史を誇る街に受継がれた何か」を強く感じる。

↑そういうことを考える他方、この種の有名な神社に奉納するような生け花は、とにかく見栄えが佳く、出くわして眺めると嬉しい。
今般、この護王神社に立寄ることが叶って善かった。また立寄りたい場所でもある…
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