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↓坂越の宝珠山の麓辺りに在る神社だ。
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↓立寄って参拝した。
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倭国へ渡来した秦氏の一族であった秦河勝は、厩戸皇子(聖徳太子)の下で活躍していたが、皇子の死後となる644年頃に海路で坂越に移ったと伝えられる。そして坂越で他界してしまった後、坂越浦の生島(いきしま)に墓が設けられ、祀られたことがこの神社の起こりとされている。生島は神社の神域であり、現在でも原則的に人の立入が禁じられている。
そうした相当に古い時期の起ったとされる大避神社は既に中世から辺りの有力な神社として知られていたという。汐待の船が多数出入りし、北前船の寄港も見受けられ、赤穂の塩の搬送等の海運業で栄えた坂越で広く崇敬され続けた神社である。
↓社殿である。
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↓1769年の建物と伝わるそうだが、細かい彫刻が見事だと思った。
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↓氏子が供えた提灯が多数飾られていた。美しい様子だと思った。
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↓色々な時代に奉納された画が掛けられていた。興味深く拝見した。
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↓虎と龍だ。
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↓海の仕事に携わる人達が、こうした画を奉納したのであろう。
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↓「平成」という元号が入ったモノも眼にした。今でもこういう奉納は行われているのであろう。
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↓「清めの塩」を頂いた。
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↓海と、神域の生島を望む辺りに鎮座する神社だ。
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↓坂越浦と共に在り続ける大避神社である。何か強く記憶に残る。
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