富山の岩瀬は、北前船による交易で栄えた経過が在る地域だ。岩瀬は、古く「三津七湊」(さんしんしちそう)と呼ばれた各地の重要な港の1つに数えられていた。
北前船による交易は、積んで出た品物を寄港地で売り、寄港地で積んだ品物を次の寄港地で売るというような、「移動する百貨店」というような様子も在ったようだが、他方に主軸となる取引が在った。岩瀬等の北陸の船は、北陸の米を積み込んで、米を作っていなかった蝦夷地(現在の北海道等)へ持ち込んで売り、肥料として農業を支える鰊粕を仕入れるというようなことで大きな利益を上げていたそうだ。鰊粕は肥料として重要視され、北陸に戻ってから方々に高く売れたようだ。船が動く先々で、その積荷が高く売れれば、北陸から蝦夷地の往路でも、蝦夷地から北陸の復路でも取引が成立するのなら、そうした取引を運営する商人は莫大な利益を得られる訳である。
↓北前船による交易を手掛けていたという森家の店舗兼住宅の建物が岩瀬に伝わっている。
↓有料だが中も見学可能だ。
↓森家の関係者が着用したらしい半纏が飾られていた。
↓伝えられている細々としたモノが展示されていた。
↓更に馬場家が在る。こちらも有料だが中も見学可能だ。隣接していて、森家、馬場家の共通券というモノも在る。今般はその共通券を利用した。
↓馬場家は、岩瀬で北前船の交易に携わっていた家では、最も大きな事業を手掛けていたという。
↓馬場家の建物には大きな広間が設えられていた。
↓蔵に往年の金庫が並べられていた様子が面白かった。
↓重厚な設えが凄く興味深い。
馬場家については、北前船が廃れて以降も汽船による海運業を手掛けていたという。更に、富山の近代化の中で、教育機関を興す際に大きな寄付を行った経過が伝えられ、地域の歴史を創るような大きな存在感を示した。
北前船で栄えたという地域の面影が伝わる場所を訪ねてみるというのも非常に興味深い。
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