芭蕉像…:気比神宮:敦賀(2023.12.27)

気比神宮を訪ねて参拝し、広い境内の一部を歩き廻った。

↓こんな像が在ることに気付いた。
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↑「誰?」と思ったが、何か「江戸時代辺りの文化人?」というような雰囲気だと感じられた。

↓「芭蕉像」とのことである。俳句の松尾芭蕉である。
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↑松尾芭蕉は1702年に登場したという『おくのほそ道』の紀行で敦賀にも立寄っている。その時の句が『おくのほそ道』に在るようだが、そこから択んだ「月清し 遊行の持てる 砂の上」という句が像の台座等に刻まれている。

「月清し 遊行の持てる 砂の上」とは、歴代の遊行上人が持ち込んだと伝わる砂の上に、清らかな月光が放たれている、月光で砂が美しいというような意味であるらしい。

気比神宮は、松尾芭蕉の時代には既に「気比明神」と知られる神社であった。ここでは、嘗て遊行上人が辺りの葦を刈って、土砂持ち込んでぬかるんだ地面を整えて参道を改修したと伝えられている。そうしたことから歴代の上人が白い砂を神前に運ぶ習わしが在ったのだそうだ。そうした故事を踏まえ、秋の日の夜に気比明神を訪れて観た、月光が彩った景色の美しさを詠っている訳だ。

『おくのほそ道』の紀行は江戸から始まって、東北地方の太平洋岸寄りを北上し、仙台周辺の松島から平泉に至り、山を越えて日本海側に出て、日本海岸を南下して北陸に至っている。その中で敦賀にも立寄っている。越前国から近江国に入り、美濃国へ抜ける。美濃国の大垣から発つという辺り迄が『おくのほそ道』に綴られているのだそうだ。

↓150日間で2400㎞程を歩いたそうだ。単純に計算すると「1日に16㎞」となるが、方々で数日間滞在しながらの旅なのでそういう計算になるというだけで、毎日歩き続けた訳でもない。「Aを発ってBを目指す」と明確に決めて動く場合は40㎞弱を歩くのが江戸時代の旅立ったようである。松尾芭蕉もそうしたのであろう。
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↑『おくのほそ道』の紀行は、なかなかの大旅行で、そして松尾芭蕉もそこを歩き抜いた訳で、何やら凄いと改めて思った。

自身、福井県内の敦賀から滋賀県内を通り抜けて京都に移動しているので、松尾芭蕉が辿った経路を半ば真似たような感じになった。自身の場合は。徒歩ではなく、列車に乗っているが…

こんな銅像を介して、思いも掛けず、少し知られた先人の事績に触れられた訳である。興味深いことだ。

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