大阪天満宮…(2023.12.30)

大阪では「天満」、「天満橋」、「天神橋筋」というように、大阪天満宮に関連が在るらしい地名の場所が多く見受けられる。大阪天満宮の素材感が大きいということが伺える。他方、考えてみると大阪天満宮に立寄ってみた経過が無かった。

天神橋筋六丁目駅周辺に滞在しようと大阪に入った際、大阪天満宮を訪ねることを思い付いた。天神橋筋六丁目駅のロッカーにモノを預けて身軽になり、好天に恵まれた街を歩き始めた。

「正解」としては、天神橋筋商店街を6丁目から1丁目迄、順にゆっくり進めば大阪天満宮の傍に至った。が、何となくJR天満駅の辺りに出る等して、少し変な方向に進んでしまった。

↓何か中途半端に廻り込んで、漸く「直ぐ近くらしい…」という辺りに至った。
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↓天神橋筋商店街を延々と進めば善かったのだと気付かされた。
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↓回り道でも何でも、目指してみた大阪天満宮に辿り着いたのは善かった。表大門を望んだ。
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↓門の辺りに周辺案内図のようなモノが在って、郵便ポストが据えられていた。
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↓境内案内図が、何かイラスト的で感じが好いと思った。
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↓初詣で夥しい数の人々がやって来るということで、それへの備えが整う中、歳末の好天という中で少し賑わうような様子だった。
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↑「御賽銭を遠くから投げないで下さい」と掲示が出ている。

↓社殿が金網で護られるというような様子になっていた。
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↓無事に大阪に着いて、大阪天満宮を訪ねられたことに感謝の意を表し、辺りを一回りした。
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神社そのものは、難波宮の北西を守護するとして650年に起こっている。<大将軍社>と呼ばれた。

901(延喜元)年、大宰府へ行くことになってしまった菅原道真が、この<大将軍社>に立寄って旅の安全を祈願したと伝わる。

やがて菅原道真に関連した天神信仰が拡がって行く。949(天暦3)年には、菅原道真が立寄ったと伝わる<大将軍社>の前に7本の松が生えて霊光を放っているという奇譚が囁かれ、都にも伝わる。それを聞いた村上天皇の勅命で<天満宮>が建立された。従前の<大将軍社>は摂社ということになり、この場所は<天満宮>を中心とする社になって行く。

永くこの<天満宮>は受継がれる。火災等で建物が損なわれることも在ったが、再建が繰り返されている。1724(享保9)年の火災で損なわれて再建された建物は、1837(天保8)年の大塩平八郎の乱に伴う火災で損なわれた。そして1843(天保14)年に建物が再建されているのだが、この建物は第2次大戦時の戦禍を免れて現在に受継がれているのだという。

↓右の頁が大阪天満宮の御朱印だ。確り頂いた。
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↓表大門を潜って出ようとすれば、真上にこういうような干支で方角を示すようなモノが飾られていることに気付いた。
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↑干支が美しいのだが、「酉」は鶏というよりも鳳凰のような姿で少し面白い。

↓そしてこういう<御神酒笑姿>(おみきえびす)という像も在る。
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↓境内に蛭子遷殿を擁することに因むモノで人気が在るようだ。
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↑2007年から<天満天神えびす祭>という催しも行われているようだ。戦後長く途絶えていた催事を復興したということであるという。

今般、大阪天満宮を訪ねてみて、大阪がより身近に感じられるようになった気もする。神社は一度訪ねて御終いではない。何度でも参拝に立寄る場所でもある。またゆっくりと訪ねてみたいものだ。

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