チカプニ→近文…Cikap-un-i=鳥 いる 所…(2024.02.18)

↓近文小学校という学校が在った。
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↑1919(大正8)年に「北門尋常小学校西分教所」として開校し、1922(大正11)年に「近文尋常小学校」として独立した学校となった。1941(昭和16)年に「近文国民学校」と改称している。戦後の制度の下、1947(昭和22)年に「旭川市立近文小学校」となって現在に至るようだ。

↓この小学校の辺りにこんな看板が在って、足を停めて少し眺めた。
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↑北海道の地名には、アイヌ語の音が転訛して漢字を宛てた例や、「如何いう意味か?」という話しを受けて、その意味する漢字を宛てているという例が見受けられる。小学校にも冠せられている近文は音が転訛して漢字が宛てられた例となる。他に鷹栖という地名も在るが、それは「鳥 いる 所」の意味に漢字を宛てた例となる。

この辺りは「近文コタン」と呼ばれた辺りだ。現在の旭川市内の住所として、近文、緑、錦、北門というような辺りに相当するようだ。

1887(明治20)年にアイヌ保護が謳われ、当時の旭川村と鷹栖村との中間辺りに、方々に広く点在していたアイヌのコタン(村)を纏めるということになり、一帯は「チカプニコタン」と呼ばれるようになった。

やがてアイヌに土地を与えるという計画が起ったが、1899(明治32)年に陸軍の第七師団が旭川に入ることになった関係で、土地を与える計画が保留となる。以降、急速に旭川村が発展する中、不動産投機の思惑等が絡んで「チカプニコタン」の様子は色々と揺れた。それでも「チカプニコタン」は継続したが、1929(昭和4)年に辺りの地名が近文町、緑町、錦町、北門街というようになっている。

1945(昭和20)年から1947(昭和22)年の「農地改革」で、「チカプニコタン」であった地域の農地に関して、地主から小作人に権利が移されるようになって、地主であったアイヌが困窮した例も在ったようだ。やがて旭川の発展と共に辺りは市街地の一部に組み込まれて行くようになる。

近文、緑、錦、北門というような辺りは、大きな商業施設や大学や、様々なモノが立地している地区である。軍の関係で敷設されて後に貨物線となった軌道は廃止されているが、近文駅は現在も旭川駅の西北の隣に健在である。少し前に観た、『カムイのうた』という映画で、ヒロインが東京へ旅立つ際に列車に乗ったのは「近文駅」であったが、あのヒロインのモデルになった人物が「チカプニコタン」に在ったからなのであろう。

多少、道に迷いながら辺りを動き回り、地域の歴史に想いを巡らせる時間を過ごしたのだった。

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