こういう中で戸外を歩くが、未だ「花」には間が在る感じだ。花が咲いていている植物が在れば、酷く目立つ感じである。
↓こんなモノを眼に留めた。路線バスの市内線、大黒3丁目停留所で下車して、辺りの川に沿って歩いた時だった。

↑舗装路面の端、川の傍で舗装路面に生じた隙間のような箇所から出ているタンポポの花の色が酷く目立ったのだ。川の縁に柵が在って、柵の影も見えている。
「舗装路面に黄色のタンポポ」は少し目立つ。個人的には、今季初めて見たと思うタンポポだ。
歩いていて、眼の端に黄色が見える気がして、タンポポを認識する。以前であれば、こういう具合に、提げていたカメラを使って、姿勢を低くして撮ってみるというようなことはしなかったかもしれない。が、タンポポに眼を向けてみたくなる、一寸した出来事が在った。
国外出身の友人が、日本国内に滞在していた経過が在る。滞在して居た辺りの地域を訪ねて会い、一緒に歩き廻った。春の日だった。
都市緑地の端の辺りに差し掛かり、少し伸びた草の緑の中に黄色が散見した。そこで友人が足を停めた。「如何した?」と思えば、友人は緑地の端に素早く歩み寄った。
友人は「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)!」と少し声を上げ、姿勢を低くしてそれを眺めた。タンポポのことである。
友人は幼少期、または少し長じてからも、春に戸外を駆け回って、タンポポを愛でるようなことを好んでいて、タンポポを見掛けると酷く懐かしく嬉しい気持ちになるのだという。子ども時代を懐かしみ、道端の花を愛でる様が、何か少し眩しかった。
それが記憶に強めに残っていて、「春が遅い当地」で姿を現し始めたタンポポに注目した。そして友人が呟いた「Одуванчики(アドゥヴァンチキ)!」という言葉を想い起したのだった。
↓少し歩を進めて、こんな様子も眼に留めた。

↑建物の端と、舗装路面の端との隙間に、強引に挿し込まれたかのようにタンポポが伸びていて、花を咲かせ始めていた。
余程の異常な気象状況でもなければ、タンポポは毎年のように、時季に至れば花を咲かせるのであろう。「こんな所に?」というような場所で花を咲かせ続けるのであろう。
「春に戸外を駆け回って、タンポポを愛でる」というような、如何でも構わないような事柄も、戦禍が続いて、人に大きなダメージをもたらしてしまうようなモノが、判り悪い状態で散らばってしまっているような中では、思うように出来なくなってしまう訳だ。それでも花は咲くのであろうが。
或る朝に辺りを歩き廻り、友人との一寸した時間を想い起すタンポポを眼に留め、「春が遅い当地」も漸く春らしくなったかもしれないと思いながら、花の生命と、花を普通に愛でられる状態の尊さというようなことに想いを巡らせたのだった。
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