少し今年のこれまでを振り返ってみる。
2024年は出先で迎え、1月冒頭は出先から引揚げる道中という時間を過ごした。
2月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出るという機会が在った。
3月には、別段に他地域へ出掛けたということは無かった。他方で各地で催される松山隆宏公演が稚内へやって来たので愉しんだというような機会は在ったのだったが。
4月には、旭川に寄道もしながら札幌へ所用に出て、その際に小樽へ足を延ばすという機会が在った。
こうして振り返ると「一貫して気儘に過ごす」ということ、巷間では寧ろ「旅行」というように言われる事柄という程でもないのかもしれないが、そこそこに他地域との間を往来しているような気もする。
「札幌へ所用」というのは、所謂「公私の別」ということでは「私」に該当する事柄だ。故に、特段に遠慮も会釈も無く、少しばかり時間を設けて、随意に過ごすようにもしている。
所用で他地域に出て、出た際に少しばかりの時間も設けて気儘に過ごすという時間も少し位は生じる。随分と以前からそういうのは変わらないかもしれないが、2019年頃から「私」に該当する事柄で他地域へ出る場面が増えた。逆に「公私の別」で「公」に該当する事柄で他地域へ出る場面は、殆ど見受けられなくなった。
2022年から2023年に掛けては、「私」に該当する事柄の中、少しばかり御縁が出来た地域へ「半ば所用」という様子で出る場合も在った。そういう「半ば所用」がとりあえず無くなっても、今度は「一貫して気儘に過ごす」ということで当該地域へ足を運んでみるような場合も在る。
想い起すと、4月初めに桜を愛でるべく出掛けてみたいというようなことも思ったが、以前から決まっている所用の予定も在ったので諦めてしまったということが在った。
更に5月に入り、連休という中で出掛けてみようかと思わないでもなかったが、交通機関や宿泊施設が混み合っているというような感じなので、アッサリと諦めた。地元は、5月冒頭に好天で会ったのだが、何やら酷く寒々しい感じになり、結局は拙宅の居室に半ば引き籠るかのような過ごし方に終始した。
そういう中、通常に日曜日と月曜日の休業日に加えて火曜日が都合による臨時休業日ということになった。巷では特段に連休でも何でもない期間だ。思い付いたのは、土曜日を随意に過ごすことが出来るようにすると、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設けることが叶う」ということになる。
こうした情況が生じたのであれば、その「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」を実践してみたくなる。
「何かをする」ということに関連して、「時間が在れば」、「機会が在れば」というようなことをよく言うと思う。文字どおりに「時間が在れば」、「機会が在れば」という事情も在るのかもしれないのだが、結局“時間”や“機会”は「設けるべき」なモノだ。その辺に“時間”や“機会”が転がっている筈もない。自ら積極的に見出す筋合いなのだと思う。
今般は「一貫して気儘に過ごす」という“時間”や“機会”について、「所謂“連休”の1週間後に、“連休”と同等な時間を設ける」ことが叶う情況になったことから、それを掴んでみることとした。
他地域へ出掛けて「気儘に過ごす」という営為は、巷間では寧ろ「旅行」というように言われるのだと思う。が、自身の勝手な理解の中では、「旅行」の中には「随意に過ごす訳にも行かない場合」も混じっていると観る。
所謂“出張”というモノは、公式には「業務旅行」、「公務旅行」というような言い方になるのだと思う。日頃の仕事の場所から離れた場所に出掛けて仕事をするということに関して、「旅行命令」というような書類が或る筈で、そこから「旅費支給・精算」というような事務が発生するのが普通である筈だ。
自身が「他地域へ出掛けて気儘に過ごす」というように表現する営為は、そうしたモノとは明らかに異なる。全く「随意」に動き廻って構わないのである。今般の場合、「土曜日から火曜日迄」という期間、可能な限りに遠くへ出るのも、然程でもない辺りに出てゆったりするのでも、随意に決めて構わず、極端な話し「西へ向かおうと出発して、不意に東へ向かってしまう」という俄かな転進さえ差し支えないのだ。「儂は“ふりぃ”じゃけん!」とか「自らを由とする。自由!それがFree!」というような、何本も観ている幕末期を背景とする物語の映画やドラマで劇中人物達が叫んだ台詞を思い出す。
偶々という感じでもあるが、「自由に創る時間」というモノを掴み獲ることが叶った感で、何か凄く昂っている。
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