「やや早い?」と思いながら、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢に入った。8℃程度であった地元を発ち、点いた場所では20℃を超えていて、何やら汗もかいた。サウナを利用して、敢えて汗をかいた場面も在ったが、20℃を超える中で歩き廻り、自然に汗もかき、衣類も湿った。
「多少勝手知った(つもりになっている)他所」という感の旭川、更に勝手ながら「別宅」と呼ぶ程度に馴染んでいる宿の居室で寛いで居る。
早朝の列車に乗るべく、「寝坊」に注意喚起という様子ではあったと思うが、然程の問題もなく早目に起き出した。天候は下り坂ということらしいが、稚内の朝は「やや雲は多いが暗くもない」という様子であった。パタパタと支度して稚内駅へ向かった。
早朝の普通列車は空いていた。美深・名寄間で多少乗客が増えたが、そこまでは乗客は少なく、何か「敢えて車輛を借り上げて移動」ということでもしているかのような気分になった。
名寄では「キマロキ」を見学した。豪雪への対応ということで使っていた特殊な編成で、先頭に9600形蒸気機関車が在る。アレが凄く気に入っている。そしてマックレー車やロータリー車という作業車輛が在って、後尾にD51形蒸気機関車が在る。各車輛の頭文字を取って「キマロキ」なのだ。
そして普通列車で塩狩へ向かった。塩狩で初めて下車した。かの三浦綾子の記念館を観たかったのだ。
三浦夫妻は結婚後、最初に住んで居た借家を出ることになった。色々と考えて、思い切って家を建てた。その家の一部で三浦綾子は<三浦商店>という雑貨店を営んだ。その住宅兼店舗であった建物が解体された時、想い出多い家を惜しむ三浦夫妻の心情を汲み、有志が部材が残るように丁寧に解体して保管していた。そして、三浦綾子の最も知られた作品の一つである『塩狩峠』に所縁の塩狩駅の近くに移築した訳だ。旧宅部分と、資料展示等の部分とが組合さった建物だ。三浦綾子は懸賞小説の入選を契機に小説家デビューする。その懸賞小説の『氷点』や、『塩狩峠』等を執筆していたのが、塩狩駅の傍に移築された家であったことになる。これはなかなかに興味深かった。
やがて旭川に到り、宿に入る迄の時間は旭川の街を歩き廻っていた。名寄や塩狩で少々、そして旭川でやや多く歩いた。明日以降の予定も在るので、「何時でも御休み頂いて結構…」という態勢で、眠気が強くなった際に抗わないようにしようと思う。
見聞に関しては、写真を多く撮っている訳だが、何れゆっくりと整理する。「自由!」といきなり張り切ったというような感じだ。
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